これはもはや事故です!

忘れ物は……

 いつもより少し遅く帰宅した磯崎は、足を止めてマンションを見上げた。
 五階の角部屋の窓は暗いままで、人の気配がない。

 昨日までは、違った。

 明かりが灯り、ドアを開けると、美羽が少し遠慮がちに「おかえりなさい」と言ってくれた。

 その記憶が、胸の奥を静かに締めつける。

 細く息を吐き、エントランスを抜けてエレベーターに乗り込んだ。
 無機質な箱の中で、階数表示だけが淡々と点滅する。

 部屋に着いた磯崎は、玄関の照明をつける。
 コートを脱ぎ、靴を揃え、いつも通りの動作の、その途中だった。

 視界の端に、見慣れない靴が映り込む。

 ……ヒール。

 あの日、美羽が履いていたものだった。

 磯崎はそれを見つめたまま、しばらく、その場から動けなかった。
 まるで、時間だけが置き去りにされたみたいに。

(……そうだ)

 あの日。
 彼女は、このヒールを履いていた。
 足を痛めて、立つのも辛そうだったのに、それでも「大丈夫です」と言って、ぎこちなく笑っていた。

(無理をさせたくなくて、抱き上げたんだ)

 思い出した瞬間、腕の中に残る感覚が、はっきりと蘇った。

 想像していたより、美羽はずっと軽かった。
 肩に回された細い腕の力も、ほとんど頼りなくて。

 コート越しでも伝わってきた体温は、驚くほど低く、夜風のせいだけじゃないと、すぐに分かった。
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