海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
三途の川へと、一歩を踏み出した所だった。

不意に⋯風がヒュウっと駆け抜けたかと思うと、突如ぐっと腕をひかれて。バランスを失った体は、見事に後ろへと⋯ひっくり返っていく。
まるで、スローモーション。
黒紅梅のさらりとした髪の毛が⋯私の頬を掠めていった。

「「「⋯⋯⋯⋯」」」

しゃがんで私の顔を覗き込む少年が「あーあ。逃げようだなんて、馬鹿だね」と、呆れて笑っていた。

「どこに行こうとした?」
一方で黒紅梅の髪の持ち主が、冷淡にそう尋ね、私を見下げ睨みつけてきた。

「どこって⋯三途の川以外に行く所がありますか?あっちも、そっちにも、何もないじゃないですか。この状況でどこに逃げると?」

「⋯さんずの川?」

「そうです。三途の川!この川のことです」

「⋯⋯⋯」
男が、眉をしかめる。

「歩いて渡るってことは、生前に罪を犯していたってことですよね。激流じゃないのがせめてもの救いです」

「⋯⋯。おまえはこの岸辺に倒れていたが、この川に触れたのか?」

「⋯⋯。起きた時に服が濡れていたから⋯もしかするとそうかもしれません。ですが、どうやってここに着いたのかは知らないので⋯憶測でしかないですが」
「名を⋯覚えていない?」

「はい。色んな記憶はあります。知識だって。⋯確かにあるんですけど、自分が誰か、関わった人や事柄が急に抜け落ちていって⋯とにかく色々と不明瞭で何て説明したら⋯」

「怪我をしていたが、その理由は?」

「知りません」

「では、自らここへ来たのか?」

「わかりません。でも、明らかに私が生きる世界とはまるで違います。知らない世界に自ら飛び込む理由はありません」

「⋯何か罪を犯した記憶は?」

「生きていれば大なり小なりあるでしょう。悪事を働いた記憶はないですが。⋯⋯あのー⋯、ところでこれは、再審請求できるってことでしょうか?」

むくり、と体を起こして。
試しに⋯民主主義の裁判制度を用いってみる。

「さいしんせいきゅう⋯」

駄目だ。何度目かのカタコトオウム返しだ。
何か考えているようにも見えるし、クールすぎて無関心であるようにも感じる。

「あの⋯、秦広王?」

「⋯⋯。シンコウオウ?」

「そうです、あなたのことです。冥界の入口で審理する秦広王でしょう?それとも、閻魔大王ですか」

「⋯⋯⋯」
面倒くさくなると、必殺、無言の発動。
感情は全く読めないし、どうしたものか。

しばらくすると、男はぽつり、ぽつりと話しだした。

「ここは、お前の言う【三途の川】という名称ではない。忘川(ぼうせん)を知らぬのか」

「⋯⋯。三途の川ではない、と?」
(ぼうせん、とは⋯?)

寝転がったまま、私は尋ねる。

「知らないというのは、どうやら本当のようだ。忘川に入った者は、少しずつ己の記憶を消していく。何日もかけて渡り終える頃には、全てを忘れるのだが⋯、お前の場合はそれとも違う」

「死者が渡る川ではないの?」

「何百年をかけても渡れなければ、肉体も魂も消え去ることにはなるが」

「⋯⋯⋯」
(すると、なぜ私はここに?)

「死んだと思っていたのか?」

「はい、おそらく⋯感覚的に、そうで間違いないかと」

「待って。それは不可解だな。川に用があるのなら、それは⋯悲観して自ら望んで入ろうとする者か、それとも⋯」
黙って聞いていた少年が、ここで口を挟む。

「福!!」

男の一声で、空気がピリ、と張り詰める。
それと同時に⋯辺りの霧がサッと消え去って、急に視界が広がってきた。

「⋯⋯⋯?!」

なんと、その川の美しいことか。
鏡のように⋯真青の空と、太陽とを映し出し、まるで御伽の世界のような⋯。

そうだ、天空の鏡と言われるボリビアに実在するウユニ塩湖。そんなイメージの、世界だ。

こんな綺麗な世界、もちろん見たこともない。
思わず、誰かと共感したくなる。
かつてはきっと、これをスマホで写真に撮って、誰かに共有⋯⋯。
誰に⋯共有していたのだろう?

そんなことすら思い出せず、それを今実現できるのが⋯見知らぬ男たち。

「秦広王⋯」

「⋯⋯⋯」

「綺麗ですね」

「⋯⋯⋯」

うんともすんとも言わないことはわかっていた。
けれど、空に包まれたこの美しい世界に、このご尊顔。もはや神秘的と言わざるを得ない。
天界に訪れた、とファンタジーなことすら考えてしまう。

冷たい視線が注がれる中、両者を交互に眺めて。ほうっと息を吐いた。

するとどうだ。
ペチっと額を叩かれて。少年の可愛くも毒のあるどんぐり眼が視野を邪魔してくる。

「なんか浸ってる所に水を差すようで悪いけれど。おまえさ、さっきから【しんこうおう】って呼んでるけどな。この方は⋯」

「福。この者の口を塞いでおけ」

「はい。国公は英明なり」

情緒もなんにもありはしない、現実か夢かもわかりもしない。

この、天国のような世界で⋯神のような悪魔が、そこにいた。

口は塞がれ、手足は縛られ、目隠しまでされた私は、知らざる世界で生きていく⋯これが第一歩になるだなんて、まるで想像もできなくて。

読めない次の展開に、ひとまずジタバタともがくことしかできなかった。



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