海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
時間にして、おそらく⋯5分。
私は、脱出に成功し⋯監視の兵の目を掻い潜って、森の中へと向かった。


以前の経験と、福の話から⋯彼を驚かせるには、大きな音が有効だと悟った。地獄耳の弱点だ。

女子であることを理由に厠に入って来ないであろうことは明白。

福が落とした、立派な小刀⋯。青銅でできたものであろうか?それでさっさとロープを切り、一角にある突起した部分に結び付けると。

小窓から⋯逃走!

あとは、80分〜90分を走り倒す元ボランチの走力で⋯いざ、脱獄だ。


どうやら追手はいないらしく、独走状態。
「こういうときこそ、キーパーとの一対一でメンタルを試されるんだよなあ⋯」私の統計史上、自分なら7割は外す。

だから、試合は前後半できっちり決めたい。PKは苦手なんだよなあ⋯などと思い巡らせていると。

何かに首をぐいっと引っ張られて⋯。
この世界に来てから、2度目のバックドロップが見舞われた。

首が絞められて⋯本能的に、巻き付いているソレと首との間に、指を入れようとする。

ドラマなら、ひっくり返るその瞬間に⋯ソレを受け止めるイケメン、的な存在がいるのに。

ここに居るのは、そう⋯イケメンなれど鬼畜な、軍師。



「秦広王⋯、ご、ごめんなさい、逃げようとしたわけでは⋯」

だから⋯一対一は、苦手だ。勝率が上がるようで、ぐんと下がるから。

姿が見えずとも、この不穏な風の流れでわかってしまう。

絶対に、あの男だ⋯。


ふっと、首に絡んでいたものが解かれて、私は嗚咽を繰り返す。
苦しくて、涙が止まらない。

じゃり、じゃり⋯と、私に迫って来る足音が聞こえて。
次の瞬間には首根っこを掴まられると。ぐいんと体を起こされて、自ずとあの者と至近距離で対峙することになる。

「選べ」

「⋯⋯え?」

「このまま逃げて誰かに見つかり、妖族の餌食になるか。それとも⋯、戻って罰を受けるのか。2択だ」

「⋯妖族⋯?餌食?」

「野生や流浪の妖族に見つかれば、分別なく食されるだろう。人間であれば、なおのこと」

「⋯⋯⋯」
生態系ピラミッドが、脳裏に⋯浮かぶ。
人間は、食べられる側⋯?!

「ここに住む者は皆鼻が利く。動物か人間かなど本能で察知できるが、皆悪い者ではない。知や理性を持っている者ならばいいが⋯」

「⋯⋯⋯」

「お前の腕に、匂いを消す腕輪をつけたのも、それが理由だ」
(⋯腕輪?)

私は自分の両腕を見るが、腕輪などどこにも見当たらない。

「見えないだろうが、1本の糸ほどの透明なものだ。妖族の毛の呪縛。邪気を払う効果もある」

「それは⋯、どうも」

「切ろうとすれば、術にかかったお前の命も失う」

「⋯⋯?!」

「さて。お前は今罪に問われて、裁きを待っている身だ」

「⋯さようでございます」

「その呪縛が牢獄がわりであったが⋯自ら弱肉強食の世界に飛び込むのなら、見ものであるし、裁く手間も省かれ一向に構わない」

この男、顔色ひとつ変えずに、なんと残酷な⋯。

「海棠、私は待つのは嫌いだ。10秒の余地を与えよう」

まさに冷酷無比。
つまり、生も死もこの者の掌の上で転がされている。そういうことだろう。


たったの10秒で人生の歩み方を選べなど⋯どれだけ情のない男なんだ。

「10⋯9⋯」

おまけに一方的な言い分でカウントダウンを始めるだなんて。

「⋯⋯⋯⋯」
この人⋯、いや、コイツだけには命を奪われたくない。


「決めた。⋯時間の無駄だ。秦広王、さっさと戻りましょう」

決めた。いつか、いつの日かこの男に認められて。
自由を⋯手にする。

そして、謎だらけの夏王朝の真相をこの目で見て⋯暴いていくのだ。

狭い選択肢の中で這い上がるには、今はこの道しか残っていない。さあ、覚悟を決めて。

「秦広王。もう逃げなどしませんが、心配ならどうぞワンコのようにリードでもつけてください」

「逃げようとしたのではない、と言っていたが」

「⋯⋯」
くそう、記憶力のいい奴だ。


「犬とは言え⋯畜生とは言え⋯勝つ事が本義にて(そうろう)」(戦国武将、朝倉宗滴(そうてき)

人としての体裁や名誉を捨ててでも、目的のためならもはや手段を選ばない。

秦広王は、ただ黙って。
拘束もせず、リードもつけずに、すたすたと前を歩く私を、後ろから威圧的に見ているだけだった。



一介の人間が⋯果たしてこの者に対峙できるのか?

試合開始のホイッスルの音が⋯聞こえるようだった。


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