海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
男たちが、じり、じりと有昧后へと近づいて。地面を蹴り、一気に距離を詰める――そう「見えた」のは、彼らが命を落とす直前の錯覚であった。
海棠が瞬きをした、その一瞬。
有昧后の姿が、陽炎のようにかき消えていく。
――ブンッ!と空気を切り裂く短い重い音と風圧とが―⋯宙を裂いて。
次の瞬間には、彼は元の位置に立ち、手にした槍に付いた赤を乱暴にひと振りしては―⋯倒れている男たちへと返す。
それから⋯男の側に落ちていた玉符に、勢いよく槍を突き立てると―⋯それは脆く、パリン、と音を立てて割れていったのであった。
怖いほどに―⋯淡々と。
男たちは、自分が斬られたことすら気づかぬ表情で、息絶えていた。
敵の動きの『起こり』を読み続けてきた彼女ですら、今の動きには反応できなかった。筋肉の動きも、重心のぶれも、一切なかった。
ゆっくりと立ち上がった福が、静か語る。
「有昧后。この者たちは―⋯」
「有扈氏であろう」
「やはり、そうでしたか。でもなぜ―⋯」
「⋯どうでもよい」
「でも、玉符が」
「偽物だ」
有昧后は、爪を隠すことすら飽きたと言わんばかりに、冷たく言い放つ。
『后』として君臨しているのは、禹王の温情などではない。圧倒的な「個」の武力が、有昧という秩序を物理的に支えているのだ。海棠は、喉の奥が乾くのを感じて、けほ、けほ、と音をたてた。
自分を監視する相手は、彼女の自由を認める一方で、戦略や知略を軽々と飛び越える、本物の『怪物』だったのだ。