海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
有昧の軍の者であろうか―⋯?その遺体はあっという間に運び出されていく。
そう、まるで、近くで待機していたかのように。
有昧后の姿を見るのはいつぶりだったか―⋯。
海棠は、何とも言えない複雑な表情で―⋯彼を見つめていた。
彼が彼女の方へと、一歩、近づいた時。
有昧后の心の臓に一瞬―⋯痛みが走ります。
それは―⋯海棠本人すら気づかない、恐怖と哀しみの感情の―⋯肩代わりでありました。
「⋯⋯背を向けよ」
低く、冷たい口調で⋯彼女に命じます。
海棠の小さな背中を見つめながら―⋯ふと考える。
忘川で出会い、哀の感情を奪ったその後に―⋯有昧后が彼女の哀を感じることは一切なかった。
普通の人間ならば、情に脆く、ましてや異界に住むなど―⋯郷愁の念に苛まれることだろう。
なのに―⋯だ。
そんな当然の摂理もなく、死を目の当たりにして初めて感情を露わにするとは―⋯。
「もうよい」
海棠が再び―⋯振り返ると。
さっき見たはずの―⋯遺体も、血の海も、跡形もなく消え去っていた。
福が用意してきた、白玉の玉盉を手に―⋯彼は后としてその死を弔う。
徐に玉盉を傾けて、大きく弧を描いて―⋯酒を床に撒いたのだ。
「なぜ自分で殺しておいて―⋯」と、途中まで言いかけて、海棠はその先の言葉をぐっと飲み込んだ。
殺したくて、殺した訳では―⋯ないのだろう。
だからこそ弔っているのだ、と気づいたのだ。
自分が見つからなければ、ここが有昧の地でなければ―⋯槍を振る理由なんてないはず。
福に外へ出るように命じ、海棠と有昧后は面と向かって初めて2人きりの状況になった。
彼は筵を敷いた床へと海棠を座らせて、自分も向き合って⋯座る。
目の前で座す有昧后をみたことなど⋯これまで1度もない。
いつもいつでも、背筋を伸ばし、その広い背中で、己の佇まい1つで力を誇示する。后としての―⋯威厳を、立ち姿で見せつけられていた。
なのに。目の前にいる男は、その張り詰めた空気を今だけは⋯纏っていない。
圧倒的な覇気は損なわずに⋯けれどどこか気怠げにも見えるのだった。
彼は、海棠の前に、あの石のサイコロを転がします。
「大数の法則は、すべての条件が完全に均等であるという、机上の空論を前提としているのであろう。だが、現実の戦場に、そしてその『石ころ』に、完全な均等など存在しない」
彼は長い指先で、むしろの上の歪な石のサイコロを一つ、ひょいと拾い上げた。
「見よ。お前がが錐で穿ったこの『一』の目は、他の目よりも深く、大きく削られている。すなわち、この面はわずかに軽くなり、対面の『六』が下になりやすい。風の吹き方、むしろの凹凸、手の垢……数が増えれば増えるほど、その微小な歪みこそが蓄積され、平等を破壊する。何百回振った先にあるのは、五分五分の奇麗な世界ではない。歪んだ確率の、泥臭い現実だ。現実はそう甘くはない」
「⋯⋯⋯」
彼女の目の前に玉杯を隙間なくピタリと並べる。
そして、盉を傾け、白く濁った地酒をそのくっついているフチの真上から、ポタポタと一滴ずつ落とし始めた。
静まり返った室内に、ポチャ、ポチャ、と規則的な音が響く。
「見よ。一滴一滴は、右へ左へと気まぐれに流れて入る。では、この気まぐれが―⋯数百回、数千回と回数を重ねたらどうなる?」
「⋯⋯両者、同じ量に―⋯」
「そうとも限らない。風や、ほんの僅かな器の歪みが結果を混沌とさせるであろう」
海棠はは息を呑みました。現代の工場で作られた完璧なサイコロなら大数の法則は綺麗に現れる。だが、ここは古代夏王朝。回数を増やせば増やすほど、純粋な数学的確率ではなく、物理的な「歪みの蓄積」という現実が勝ってしまうのだ。
「一回きりの戦はただの混沌。だが、数万の兵を動かす私は、その微小な『歪み』のすべてを計算し、最初から味方につけて勝利を導く。……これが、この時代の戦術だ」
「⋯⋯⋯」
「お前が信じた平等の神は、この時代の歪みに敗北する。それが―⋯現実だ」
彼女は―⋯雫の行方を眺めながら、ゆっくりと口を開きます。
「有昧后。全てをそう断言しては、つまらぬ敗北を呼びます」
「⋯⋯⋯」
「例えば、この⋯雨。川が氾濫しても、その年だけ雨量が少なくても、天の理だと片付けているではないですか。何なら、人のせいにさえしてしまう。祈祷し願うなど―⋯現実的ではないのでは?そこに、対策は施しているのでしょうか。今年の夏の雨量がどうなるかは『気まぐれ』です。けれど―⋯これから先、30年分の夏の雨量を全部足して平均したら、この土地の完璧な『平年の雨量』に収束するのです。測れないから、見えないから分からないでしょう?農産物の収穫量にも同じことが言えるのです」
海棠は雨雲の立ち込める空を高窓の小さな枠から見上げ、フッと低く笑った。
「一日の雨は農民を狂わせる混沌ですが、30年の雨は国を潤す秩序です。有昧后。たった1日の―⋯混沌です。貴方は今、何かを憂いているのでは?長く生きる天妖の者にとって、一過性のものでしょう?どうか、たまには肩の力を抜いて―⋯酒でもどうです?」
「⋯⋯⋯」
有昧后は―⋯玉盉の傾きを直して。
じっとじー⋯っと。海棠を見た。
トン、と盉を床に置いて―⋯その思考を読もうとする。
なぜならば、自身が海棠に問いたい言葉が、自分へとそのまま向けられてきたからだった。一体、どんな思考を持つ者であろう⋯と、不思議に思ったのだ。
が、海棠によって、それは阻まれる。
「でも、あれです。この白玉の盃は―⋯精巧で美しく、歪みなどほとんどないと見受けられます。一介の民では手に入れられない代物でしょう?つまり、結局のところ、権力が力を申す!とも言えますね。后が半と言ったら半、丁と言ったら丁!⋯全く⋯困った時代ですが、この時代でも成立させてみたいものです。幸い、風もありません。有昧后、一定の揺らぎと音は―⋯癒しにもなると言います。続けましょう」
こうして2人は―⋯暫し雫の行方を見守るのであった。
けれど―⋯最後の瞬間まで見れた訳ではないのはー⋯ご愛嬌。
海棠、好奇心より睡魔が勝る。
けれど翌朝―⋯寝床から起きると。
筵の上には、昨日と全く同じ位置に2つの玉盃が置いたままになっていたのであった。
全く同じ量の酒が注がれて。
海棠は―⋯まだ寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと思う。
花の―⋯いい匂いがする、と。
高窓からは、太陽の日差しが―⋯部屋を明るく照らしていた。
カラッとした、快晴の朝を迎えたのだった。
そう、まるで、近くで待機していたかのように。
有昧后の姿を見るのはいつぶりだったか―⋯。
海棠は、何とも言えない複雑な表情で―⋯彼を見つめていた。
彼が彼女の方へと、一歩、近づいた時。
有昧后の心の臓に一瞬―⋯痛みが走ります。
それは―⋯海棠本人すら気づかない、恐怖と哀しみの感情の―⋯肩代わりでありました。
「⋯⋯背を向けよ」
低く、冷たい口調で⋯彼女に命じます。
海棠の小さな背中を見つめながら―⋯ふと考える。
忘川で出会い、哀の感情を奪ったその後に―⋯有昧后が彼女の哀を感じることは一切なかった。
普通の人間ならば、情に脆く、ましてや異界に住むなど―⋯郷愁の念に苛まれることだろう。
なのに―⋯だ。
そんな当然の摂理もなく、死を目の当たりにして初めて感情を露わにするとは―⋯。
「もうよい」
海棠が再び―⋯振り返ると。
さっき見たはずの―⋯遺体も、血の海も、跡形もなく消え去っていた。
福が用意してきた、白玉の玉盉を手に―⋯彼は后としてその死を弔う。
徐に玉盉を傾けて、大きく弧を描いて―⋯酒を床に撒いたのだ。
「なぜ自分で殺しておいて―⋯」と、途中まで言いかけて、海棠はその先の言葉をぐっと飲み込んだ。
殺したくて、殺した訳では―⋯ないのだろう。
だからこそ弔っているのだ、と気づいたのだ。
自分が見つからなければ、ここが有昧の地でなければ―⋯槍を振る理由なんてないはず。
福に外へ出るように命じ、海棠と有昧后は面と向かって初めて2人きりの状況になった。
彼は筵を敷いた床へと海棠を座らせて、自分も向き合って⋯座る。
目の前で座す有昧后をみたことなど⋯これまで1度もない。
いつもいつでも、背筋を伸ばし、その広い背中で、己の佇まい1つで力を誇示する。后としての―⋯威厳を、立ち姿で見せつけられていた。
なのに。目の前にいる男は、その張り詰めた空気を今だけは⋯纏っていない。
圧倒的な覇気は損なわずに⋯けれどどこか気怠げにも見えるのだった。
彼は、海棠の前に、あの石のサイコロを転がします。
「大数の法則は、すべての条件が完全に均等であるという、机上の空論を前提としているのであろう。だが、現実の戦場に、そしてその『石ころ』に、完全な均等など存在しない」
彼は長い指先で、むしろの上の歪な石のサイコロを一つ、ひょいと拾い上げた。
「見よ。お前がが錐で穿ったこの『一』の目は、他の目よりも深く、大きく削られている。すなわち、この面はわずかに軽くなり、対面の『六』が下になりやすい。風の吹き方、むしろの凹凸、手の垢……数が増えれば増えるほど、その微小な歪みこそが蓄積され、平等を破壊する。何百回振った先にあるのは、五分五分の奇麗な世界ではない。歪んだ確率の、泥臭い現実だ。現実はそう甘くはない」
「⋯⋯⋯」
彼女の目の前に玉杯を隙間なくピタリと並べる。
そして、盉を傾け、白く濁った地酒をそのくっついているフチの真上から、ポタポタと一滴ずつ落とし始めた。
静まり返った室内に、ポチャ、ポチャ、と規則的な音が響く。
「見よ。一滴一滴は、右へ左へと気まぐれに流れて入る。では、この気まぐれが―⋯数百回、数千回と回数を重ねたらどうなる?」
「⋯⋯両者、同じ量に―⋯」
「そうとも限らない。風や、ほんの僅かな器の歪みが結果を混沌とさせるであろう」
海棠はは息を呑みました。現代の工場で作られた完璧なサイコロなら大数の法則は綺麗に現れる。だが、ここは古代夏王朝。回数を増やせば増やすほど、純粋な数学的確率ではなく、物理的な「歪みの蓄積」という現実が勝ってしまうのだ。
「一回きりの戦はただの混沌。だが、数万の兵を動かす私は、その微小な『歪み』のすべてを計算し、最初から味方につけて勝利を導く。……これが、この時代の戦術だ」
「⋯⋯⋯」
「お前が信じた平等の神は、この時代の歪みに敗北する。それが―⋯現実だ」
彼女は―⋯雫の行方を眺めながら、ゆっくりと口を開きます。
「有昧后。全てをそう断言しては、つまらぬ敗北を呼びます」
「⋯⋯⋯」
「例えば、この⋯雨。川が氾濫しても、その年だけ雨量が少なくても、天の理だと片付けているではないですか。何なら、人のせいにさえしてしまう。祈祷し願うなど―⋯現実的ではないのでは?そこに、対策は施しているのでしょうか。今年の夏の雨量がどうなるかは『気まぐれ』です。けれど―⋯これから先、30年分の夏の雨量を全部足して平均したら、この土地の完璧な『平年の雨量』に収束するのです。測れないから、見えないから分からないでしょう?農産物の収穫量にも同じことが言えるのです」
海棠は雨雲の立ち込める空を高窓の小さな枠から見上げ、フッと低く笑った。
「一日の雨は農民を狂わせる混沌ですが、30年の雨は国を潤す秩序です。有昧后。たった1日の―⋯混沌です。貴方は今、何かを憂いているのでは?長く生きる天妖の者にとって、一過性のものでしょう?どうか、たまには肩の力を抜いて―⋯酒でもどうです?」
「⋯⋯⋯」
有昧后は―⋯玉盉の傾きを直して。
じっとじー⋯っと。海棠を見た。
トン、と盉を床に置いて―⋯その思考を読もうとする。
なぜならば、自身が海棠に問いたい言葉が、自分へとそのまま向けられてきたからだった。一体、どんな思考を持つ者であろう⋯と、不思議に思ったのだ。
が、海棠によって、それは阻まれる。
「でも、あれです。この白玉の盃は―⋯精巧で美しく、歪みなどほとんどないと見受けられます。一介の民では手に入れられない代物でしょう?つまり、結局のところ、権力が力を申す!とも言えますね。后が半と言ったら半、丁と言ったら丁!⋯全く⋯困った時代ですが、この時代でも成立させてみたいものです。幸い、風もありません。有昧后、一定の揺らぎと音は―⋯癒しにもなると言います。続けましょう」
こうして2人は―⋯暫し雫の行方を見守るのであった。
けれど―⋯最後の瞬間まで見れた訳ではないのはー⋯ご愛嬌。
海棠、好奇心より睡魔が勝る。
けれど翌朝―⋯寝床から起きると。
筵の上には、昨日と全く同じ位置に2つの玉盃が置いたままになっていたのであった。
全く同じ量の酒が注がれて。
海棠は―⋯まだ寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと思う。
花の―⋯いい匂いがする、と。
高窓からは、太陽の日差しが―⋯部屋を明るく照らしていた。
カラッとした、快晴の朝を迎えたのだった。