海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
私が納屋の引き戸を開き、福と共に足を一歩踏み入れた時だった。

「戸は開けたままにしてくれ」と福がその場でピタリと足を止めた。

「どうしたの?何かあった?」

「⋯⋯。退路を断たれるのは、苦手なんだ」
明らかに⋯表情が歪んでくる。

「俺に頼みがあると言ったな。なぜここに?」
どんぐり眼がウルウルとしてくる。

「内緒話だから、誰かに聞かれてはマズい。⋯ねえ、随分と苦しそうにしてるけど⋯どうかした?」

耳元でそう囁く。

「⋯⋯⋯」

直立不動になる福の背後に立って⋯私は縛られている両腕を高く上げて。

「大丈夫?⋯怖い?」と、慰める為のバックハグ!と、見せかけてからの⋯

一気にそれを振り下ろし、福の身体をぎゅうっと拘束する。

「なんだ、急に⋯やめろ!」
福は抵抗を試みるが、力がはいらない様子で⋯地団駄を踏む程度のものだった。

「卑怯だぞ!お前に手を上げれば⋯邪気を吸われて霊力が抜けてしまうし、何もできないとわかってて⋯!」

「しっ。内緒話と言ったでしょう?可愛い貴方を傷つけるようなことはしない。教えてくれたら、すぐ解放する」

「なら早く聞け!」

「私には何も感じないけれど⋯、優秀な貴方ならわかるはず。どんな匂いがするの?」

「⋯⋯⋯?お前がしたんじゃないのか?俺を貶めるために」

私の腕の中で大人しくうなだれながら⋯疑念を口にする。

「それができるなら、そもそも大人しく縛られているはずがない」

「⋯⋯。何を知りたい?」

「ただ、どんな匂いがするのか⋯興味本位で聞いているだけ」

「⋯⋯。これは⋯沈香(ちんこう)の香だ」

「⋯⋯。沈香?人間界にもあるお香の名⋯。でも、なぜ私には匂いがしないの?」

「お前には匂いがしなくても、俺にとっては死活問題だ。人間が好む香でも、何百倍になって鼻を攻撃してくるんだからな」

「どんな効果が?」

「鎮痛や鎮静を促す効果⋯だ。不眠にも効くと聞く」
言っている側から⋯、福の口調がへろへろになってくる。

「⋯⋯私が匂いを感じない理由は?」

「そんなの⋯知るか。俺ら妖族の霊力があれば⋯多少の匂いくらい隠せるさ。ところで、海棠。本当に《《何の香りもしない》》のか?」

「⋯⋯⋯?うん」

「もう1つは⋯花の香りだ」

「花⋯?何の?」

「知らない。でも⋯お前は、それには《《気づきもしない》》のだな」

「⋯⋯?」

「それより早くここから出してくれ。もう、限界⋯」

「⋯オッケー、約束通りに」

福をバックハグしたまま、ずるずると引きずるようにして、私達は部屋を出た。

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