海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
外の新鮮な空気を思いっきり吸って⋯⋯吐いて⋯と繰り返すうちに、福の顔に生気が戻って来た。

それと同時に⋯
両腕を拘束していた術がフっと切れる。

「術が解けたのだな?王が、おまえをもう拘束せずともよいと言っていた。とはいえ、お前の左腕の腕輪が外れたワケじゃあない。俺が見張ってるし、逃げることはできない。でも⋯、自由にしていい」

「王が、それを許したの?」

「ああ」

「そうだ、王は?」

「あのな。あの方は⋯お前に構ってる時間なんて本来ないんだ。今朝方にはもう公務に出てる」

「⋯そう。⋯ねえ、福。あの人は⋯何者なの?方国の王として封ぜられていても、大人しく従うとも思えない。王ではない、あの人自身は⋯」

「⋯⋯この下界のことは全てを知り、精通する方だ。ただ⋯」

「ただ?」

「それ故に、多くを抱えて⋯自由がない。見て、見られる役割は⋯どれだけ苦痛だろう。どれだけ神経を削っているだろう。以前は、⋯いや。今は、天妖入り交じる辺境の主で、孤独な⋯王だ」

「⋯⋯⋯」
(【今】は⋯?)

「俺の名前も、王がつけてくれた仮名さ。俺は王に恩があり、命を賭け一生を尽くすつもりだ。大事にしてくれている。俺は⋯側にいるだけで報われるんだ」

「貴方⋯仮名だったの?本当の名前は?」

「⋯⋯。もう誰も、その名を呼ばぬであろうし、戻るつもりもない。王と共にそう誓った」

「⋯⋯⋯」

「でも、誇りはあるし、隠すつもりもない。その名で、出会えたんだからな。俺の本当の名前は⋯(コウ)。かつては⋯幸せを呼ぶ者、と言われていた」

「幸せを⋯。だから【福】なのね。いい名前だね」

「⋯俺は、多くを幸せにするより、大事な人を長く幸せにしたい。だから、役割を降り名を捨てた」

名を⋯捨てた?
誇りを持っているのに⋯?

「かつての名前の字は、幸福の【コウ】?」

「⋯知りたがりだな。違うぞ。聞かれても言わない」

「⋯⋯そっか。⋯わかった」


例え誇りを持っていたとしても、捨てる名がある。

あの者は⋯捨てたくても捨てられない名前がある、放棄したくてもできない名もある、と。
その根底には⋯一体何を抱え、耐えて来ているのだろうか。
福が言った彼の【今】と、以前いたはずの存在とが⋯妙に気になったのだった。



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