海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
私は⋯思い返していた。昨日の夜の、不思議で⋯少しだけ王の冷徹な顔の裏側を見た気がした、あの時間を。

てっきり⋯彼は香を炊き、その効能であの出来事を忘れさせようとしているのかと思っていた。

彼が夢だ、と言っても信じなかった理由がある。

1つは⋯目覚めてすぐに、ある違和感に気づいた。
元々汗臭い環境下で過ごしてきた(サガ)だ。香水やらの匂いが極端に苦手で⋯、起きた瞬間にはすぐに、その香に反応し、その香源を探した。
なのに⋯、だ。その存在は跡形もなくなり、匂いすらしなくなった。
確かに⋯香炉を見たはずだったのに。

そして、もう一つ。
日本漫画界⋯ドラマ界に伝わる古典的な夢と現実の見分け方が秀逸であったことだ。
両手が拘束され、王が目の前にいる環境下での実践は難を極めたが⋯古典を応用し、証拠を残すことにした。片方の手で、片方の手の甲を引っ掻き⋯その痛みを感じるか否か。
目が覚めても、傷が残っていれば⋯それが現実であったことの証拠にもなる。
必殺「ほっぺをつねっても痛くないなら夢」作戦である。


私は、左手に残る、その生々しい傷跡を見ながら⋯考えた。

あの時間が夢であったかは関係ない。
事の本質は、なぜあの人があの部屋にいたのか。あの時間の前後にあったことこそが⋯肝なのであろう、と。
つまり⋯、記憶がない時間だ。
一体⋯何があったというのだろう。


「ねえ、福。なぜあんな時間まで私を起こさなかったの?」

「いや⋯。パンの発酵に思ったより時間がかかったこともあるし、朝見た時は寝てたしな。王も放っておけ、と」

「⋯⋯。その時、あの匂いはしなかったの?」

「⋯あれ?言われてみれば」

「起きる前、あの部屋に私がいなかったと言ったよね?⋯本当?」

「嘘ついても俺に利はないぞ」

「そうだよね」


これは⋯仮定だ。
あくまでも、の話だ。

香炉を消し、匂いも消し去り、王は⋯私の姿をも見えぬようにしたのではないか?

途中で起きぬよう、福に命を下して。
誰にも邪魔されずに、ゆっくり寝れるように⋯。


その理由を⋯知る由はないけど⋯。



その甲の傷は、ちょっぴりまだ痛みを残し⋯
昨夜の出来事をより深く、リアルに⋯心に刻むのであった。

本当の名前なのかは、知らない。
彼本来の姿なのかも⋯知らない、でも。

宙に漂い浮かんだ、あの名前は⋯

浮游(ふゆう)】の文字を見て⋯嬉しく思ったあの後は。

記憶の切断と共に⋯跡形なく消えていってしまったのだろうか。

なんと⋯儚いのだろうか。
現実だとも認めぬ⋯、あの男の策略なのだろうか。

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