ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第1話 白いメモの一行

 金曜の夜、終電の気配が遠のいたころ。湾岸の高級ホテル「ミッドナイト・ムーンストーン」の裏口は、光だけがやけに真面目だった。
 優は、通用口の小さな鏡で自分の前髪を指で整え、名札の向きを直した。制服の袖口には、粉砂糖の白がうっすら残っている。下町の「ムーンストーン洋菓子店」で朝から仕込みをして、そのまま清掃応援の連絡を受けて来たのだ。
 「一日が長いほど、焼き色はぶれない」
 独り言のつもりで呟いた声が、ガラスに吸い込まれた。眠気はある。けれど、手順を崩すほうが怖い。

 エレベーターで二十四階へ上がると、廊下の絨毯が足音を丸くした。会議室の扉の前に、立て札。「役員会議 資料準備中」。中は無人で、机の上には分厚いファイルが積まれている。
 会議室の前には、香りの強い消毒液と、甘い花の芳香剤が同居していた。優は一歩目で思わず眉をひそめる。菓子の香りなら仕事のスイッチが入るのに、ここは「清潔」と「高級」を競わせてくる。
 床の案内札には「濡れた床 ご注意ください」と英語でも書かれていた。注意するのは客なのに、なぜか優のほうが背筋を正す。
 優はモップの柄を軽く握り直し、バケツを壁際に寄せた。狭い場所で水をこぼさないために、いつもバケツの持ち手を自分側に向ける。……のに。
 時計が二十三時五十分を指した瞬間、どこからか換気の風が吹いた。バケツの取っ手が、机の角に「ちょん」と触れた。
 「え、うそ」
 水面が揺れ、重力が冗談を言わないことを思い出す。バケツは倒れない。倒れないのに、波だけが跳ねて、机の上へ細い弧を描いた。

 最初の一滴が、紙を吸った。二滴目が、文字の列をにじませた。三滴目で、優の心臓が縮んだ。
 優は慌ててタオルを掴み、資料の上へ押し当てた。吸う。まだ吸う。けれど紙は、吸えば吸うほど「濡れた」と正直に変色していく。
 「……私、何してるの」
 声が震えそうになり、奥歯で止めた。大声を出しても乾かない。泣いても乾かない。まず状況を切り分ける。優は資料の端をそっと持ち上げ、濡れた範囲を確かめた。表紙だけじゃない。数ページ、しかも図表がある。
 会議の資料。役員。二十四階。深夜。
 頭の中で単語が渋滞し、胃がきゅっと縮む。

 「責任者の方、いらっしゃいますか……?」
 廊下に向かって声をかけても、返事はない。無線を持っていない自分が急に心細い。携帯でフロントへ、と思って番号を探す指が、手袋越しにも冷たかった。
 廊下の奥で、エレベーターの到着音が鳴った。誰か来る。助かった、と思った次の瞬間、足音は会議室を素通りして遠ざかった。
 優は扉の隙間から廊下を覗き、誰もいないことを確認してから、もう一度資料に目を戻した。

 弁償? 謝罪? 明日の朝、誰かが見つける前に乾かす?
 優はタオルを替え、ドライヤーがないか周囲を探した。会議室にあるのはプロジェクターと、使い方が難しそうなリモコンと、上品な観葉植物だけ。植物は優を助けてくれない。
 「……逃げない」
 胸の奥で決めた言葉は、妙に落ち着いた温度だった。逃げないなら、残す。
 優はポケットから小さなメモ帳を取り出し、白いページを一枚ちぎった。ペン先が少し震える。ここで字が乱れたら、言い訳みたいになる。優は一度深呼吸し、ペンを立てた。

 『私がやりました。』

 短く、真っすぐに書いた。主語も、言い訳も、余計な敬語も入れなかった。そうしないと、自分が自分をごまかしそうだった。
 メモは、資料の一番上に置いた。風で飛ばないよう、濡れていない角にクリップを添える。手順が整うと、少しだけ呼吸が戻る。
 最後に、資料をできるだけ平らにして、乾いたタオルを上から掛けた。重しの代わりに、近くのパンフレットスタンドをそっと寄せておく。乱暴に扱ったら、もう言い訳が立たない。

 会議室を出る前、優はもう一度扉の外を見た。廊下は静かで、警備の足音も遠い。
 「……明日の私、ちゃんと来い」
 自分へ命令して、優はエレベーターへ向かった。鏡面の扉に映る顔は、粉砂糖みたいに白い。だけど、視線だけは逸らさなかった。

 外へ出ると、夜風が冷たく、海の匂いがした。バス停までの道で、優はポケットの中の指をぎゅっと握った。握っていないと、膝が笑いそうだった。
 下町へ戻る終電はもうない。夜行バスも、今日は間に合わない。結局、優は駅前の安いカプセルホテルに飛び込んだ。受付で名前を書く手が、また震えた。
 「……明日、どうなるんだろう」
 自分の声が小さくて、救いだった。

 土曜の朝。まだ暗い五時に目が覚めた。優は顔を洗い、髪をまとめ、エプロンをバッグから出して畳み直した。布の皺を整えると、心も少しだけ整う気がした。
 菓子店に着くと、シャッターを上げる音が路地に響いた。厨房の灯りを点け、卵白を計り、砂糖の重さを確認する。昨日の失敗が胸に刺さっても、温度計の針は待ってくれない。
 ボウルに泡が立ち始めると、優は手を止めたくなった。止めたら、昨日のことに飲まれる。優は泡立て器を握り直し、リズムを戻した。
 「……今日も、焼く」

 開店前の六時二十分。販売担当のちほが裏口から入ってきて、紙袋を机に置いた。
 「おはよ。……なにその顔」
 ちほの視線が、優の手元ではなく、頬のあたりに刺さる。優は「大丈夫」と言いかけて、喉の奥で引っかかった。
 ちほは紙袋から缶コーヒーを取り出し、優の前に置いた。
 「大丈夫なら、缶コーヒー要らない顔してない」
 「……ありがと」
 優は缶を両手で包み、温度で指を落ち着かせた。言葉にしないと届かない。昨日、白い紙に書いたみたいに。

 六時二十分を少し過ぎたころ、厨房の固定電話が鳴った。優は泡立て器を置き、手を洗ってから受話器を取る。手順を抜かない。抜くと、もっと大きく壊れる。
 「はい、ムーンストーン洋菓子店です」
 受話器の向こうは、低く落ち着いた声だった。名乗り方が、部屋の空気まで整えるみたいに滑らかで。
 「昨夜の件で、ご連絡しました。ミッドナイト・ムーンストーンの……裕喬と申します」
 「……昨夜の、件」
 優の背筋が伸びた。泡がボウルの中で静かに生きている音がした。
 「怒鳴りません。確認したいことがあります。九時四十分、ホテルのバックオフィスに来ていただけますか」
 「……私、行きます」
 返事はすぐ出た。逃げない、と決めたから。
 受話器を置くと、ちほが肩越しに覗き込んだ。
 「ホテル? なにやらかしたの」
 優は言い訳を探さず、口を開いた。
 「……資料を、濡らした」
 ちほの眉が上がった。次の言葉が飛んでくる、と思った瞬間、ちほは缶コーヒーをもう一本取り出した。
 「じゃ、まず飲んでから行きな。空腹で謝ると、頭が下がりすぎて腰やる」
 優は思わず、鼻で短く笑った。笑うと胸が少しだけ軽い。
 「……腰、やりたくない」
 「でしょ」

 優はエプロンを外し、コックコートの袖をまくり直した。手をもう一度洗い、爪の先まで確認してから、戸棚の奥にしまう。戻ってくる自分のために。
 外へ出ると、朝の空気が冷たかった。けれど昨日の夜より、少しだけ明るい。
 白いメモの一行は、机の上でまだ待っている。
 優は歩き出した。九時四十分、二十四階ではない場所へ。自分が書いた言葉の続きへ。

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