ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第2話 怒鳴らない人
土曜の十時ちょうど。ミッドナイト・ムーンストーンの事務室は、紙の匂いと空調の冷たい風で満ちていた。優は借り物のスリッパの先をそろえ、胸の前で指を組む。昨日の水滴が、まだ袖口に残っている気がして落ち着かない。
「昨日の件、来てくれてありがとうございます」
机の向こうにいた、ミッドナイト・ムーンストーンの支配人・颯人は、立ち上がって深く頭を下げた。怒鳴られると思っていた優は、言葉がつかえて、喉の奥が妙に乾く。
「え……いえ、こちらこそ……。濡らしてしまって……すみません」
「まず、どう濡れたかを教えてください。責めるためじゃなく、次に起こさないために」
優は、床に置いていたバケツの位置、通りかかった台車の角、急に開いたドアの風圧を思い出しながら、順番に説明した。颯人はメモを取り、時折「なるほど」と短く返すだけだ。声が柔らかいほど、優の肩の力が抜けていくのがわかった。
「資料そのものは、来週の取引先への提案に使うものです。濡れたページは、現物の写真と照合して作り直せます」
「作り直せる……んですか」
「はい。ただ、時間が要ります。だから——」
颯人は、引き出しから透明なファイルを一枚取り出し、濡れた資料の写真を見せた。しわの寄った紙が、きれいに撮られている。優は唇をかみ、逃げずに訊いた。
「私に、何をすればいいですか。どう直すのが一番早いですか」
「……その聞き方、助かります」
颯人の目が、ほんの少しだけ細くなる。褒められたのかどうか判断がつかず、優は背筋を伸ばしたまま固まった。すると颯人は、机を回り込み、優の前に椅子を一つ置く。
「座ってください。今日、あなたを長く拘束しません。菓子店も忙しいでしょう」
「忙しい……はい。仕込みが、途中で……」
「仕込み、ですか」
「はい。卵白の温度を見て、砂糖を入れるタイミングがあって……」
言いながら、優は自分が何を説明しているのか分からなくなってきた。ホテルの事務室で卵白の話をしている。しかも真剣に。
颯人は笑わなかった。代わりに、真面目な顔でうなずいた。
「温度管理が必要なんですね。こちらも、紙の湿度と温度で伸び縮みします。似ています」
「……似て、ますか」
「ええ。どちらも、手を抜くと嘘をつく」
優は、思わず小さく息を漏らした。笑っていいのか、感心していいのか迷って、結局、口元だけが少しゆるむ。颯人は電話を取り、外線でどこかへ手配を始めた。話す内容は速くて専門用語が多いのに、声の調子だけは優に向けるときと変わらない。
十分ほどで通話が終わると、颯人は「これで補修の段取りがつきました」と言い、優に一枚の紙を差し出した。コピーしたページの一覧だ。
「この部分だけ、あなたの目で確認してほしい。昨日、あなたが見た位置にあったから、気づけることがあると思う」
「私の……目で」
「はい。責任は私が負います。ただ、あなたの協力が必要です」
優の胸の奥で、何かがほどける音がした。「私がやりました。」と書いた白いメモの文字が、責められるための鎖じゃなく、手を差し出すための糸に変わった気がする。
「わかりました。見ます。……見て、足りないところがあったら、言います」
颯人は、今度こそ少し笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、場所を変えましょう。ここは冷えます」
*
十二時半。ホテルのすぐ外、ガラス張りの小さなカフェ。人の声がやわらかく反響し、窓際の席には冬の光が薄く落ちていた。優の前には、砂糖を入れていない紅茶。颯人の前には、同じく砂糖なしのコーヒー。
「甘くしないんですね」
「甘くすると、午後に眠くなるので」
「……同じです。私も、仕込みのときは甘いのを避けます。味見が狂うから」
言い終えてから、優は気づく。味見が狂う、という言い方は、ホテルの人に通じるのだろうか。けれど颯人は、あっさりとうなずいた。
「理屈が分かりやすい。あなたは理由を持って選ぶんですね」
「理由がないと、手が止まるので……。迷うと、焼き色が変わります」
「迷うと、こちらも顔に出ます。取引先は鋭い」
カップの縁を指でなぞりながら、優は少しだけ肩の力を抜いた。昨日からずっと、謝る言葉だけが口の中に溜まっていた。でも、今は謝る以外の言葉を出したい。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
喉が震えた。優は、逃げないように颯人の目を見る。颯人は一拍置いて、深く息を吸った。
「こちらこそ。来てくれて助かりました。……白いメモ、見ました」
「……捨てて、ください」
「捨てません。あれは、あなたが逃げなかった証です」
優は、指先が熱くなるのを感じた。自分の書いた、たった一行が、誰かの口から「証」として返ってくる。胸の奥に、恥ずかしさと、少しの誇らしさが混ざる。
颯人はスマートフォンの画面を見ながら、淡々と次の手配を確認している。けれど、優の手元に空になったお冷やのグラスがあるのを見て、店員を呼び、さりげなく水を追加してくれた。言葉より先に、手が動いている。
「……いつも、そうやって気づくんですか」
「気づけるように、癖にしてます。昔、誰かに助けられたので」
「誰か……」
「詳しくは、また今度」
それ以上を聞かないのが礼儀だと、優の中の何かが判断する。優はうなずき、持参した小さなメモ帳に、必要な確認点を箇条書きにした。店のレシートの裏ではない。今は、ちゃんとした紙に書きたかった。
「今日中に確認して、夕方までに連絡します」
「無理しないで。あなたの土曜は、あなたのものです」
その言葉に、優は小さく首を傾げる。
「でも、私が……」
「あなたがやったから、あなたが全部背負う、ではないです。——共同で直します」
共同。優はその言葉を口の中で転がし、何度か確かめる。まだ遠い。でも、遠いからこそ、手が届くように感じた。
*
土曜の夜。優の六畳の部屋は、昼間より少しだけ暖かかった。電気ポットの湯気が窓に白く曇りを作り、外では遠くの車の音が途切れ途切れに聞こえる。机の上には、帰り道で買った安いノートパソコンと、開きかけのままのメモ帳。
優は指先をほぐし、慎重にキーボードに触れた。画面の中に「新しいブログを作成しますか」と表示される。昔の下書き——『これは好きの残骸です』——のタイトルが、頭の片隅でちらついた。あれは、過去の気持ちを整理するための言葉だ。今夜書きたいのは、それとは違う。
入力欄に、優はゆっくりと文字を打つ。
『何気ない日常を淡々と描いた物語』
指が止まる。長い。けれど、これがいい。派手な言葉で飾るより、毎日の手順と、ふとした一言の重さを残したい。
最初の投稿の欄に、短く書いた。
「土曜の十時。怒られなかった。怒られないって、こんなに怖い。けど、少しだけ安心した。ありがとうと言えた。」
送信ボタンを押す直前、優は深く息を吸った。誰に読まれなくてもいい。自分が自分に嘘をつかないために書く。
送信。
画面に「投稿しました」と表示された瞬間、優は椅子の背にもたれた。胸の中に、まだ小さな灯りがともっている。笑いそうで、泣きそうで、どちらでもないまま。
スマートフォンが震えた。裕喬からの短いメッセージだ。
『無事? 今日は寝ろ』
優は「はい」とだけ返し、布団を引き寄せる。布団の中で、昼のカフェの光と、颯人の「共同で直します」という声が、ゆっくりと反芻された。
明日は朝五時に起きる。卵白の温度を見る。砂糖のタイミングを逃さない。その上で、今日の続きを生きる。
優は目を閉じた。土曜の終わりに、まだ続きがあると知ったまま。
「昨日の件、来てくれてありがとうございます」
机の向こうにいた、ミッドナイト・ムーンストーンの支配人・颯人は、立ち上がって深く頭を下げた。怒鳴られると思っていた優は、言葉がつかえて、喉の奥が妙に乾く。
「え……いえ、こちらこそ……。濡らしてしまって……すみません」
「まず、どう濡れたかを教えてください。責めるためじゃなく、次に起こさないために」
優は、床に置いていたバケツの位置、通りかかった台車の角、急に開いたドアの風圧を思い出しながら、順番に説明した。颯人はメモを取り、時折「なるほど」と短く返すだけだ。声が柔らかいほど、優の肩の力が抜けていくのがわかった。
「資料そのものは、来週の取引先への提案に使うものです。濡れたページは、現物の写真と照合して作り直せます」
「作り直せる……んですか」
「はい。ただ、時間が要ります。だから——」
颯人は、引き出しから透明なファイルを一枚取り出し、濡れた資料の写真を見せた。しわの寄った紙が、きれいに撮られている。優は唇をかみ、逃げずに訊いた。
「私に、何をすればいいですか。どう直すのが一番早いですか」
「……その聞き方、助かります」
颯人の目が、ほんの少しだけ細くなる。褒められたのかどうか判断がつかず、優は背筋を伸ばしたまま固まった。すると颯人は、机を回り込み、優の前に椅子を一つ置く。
「座ってください。今日、あなたを長く拘束しません。菓子店も忙しいでしょう」
「忙しい……はい。仕込みが、途中で……」
「仕込み、ですか」
「はい。卵白の温度を見て、砂糖を入れるタイミングがあって……」
言いながら、優は自分が何を説明しているのか分からなくなってきた。ホテルの事務室で卵白の話をしている。しかも真剣に。
颯人は笑わなかった。代わりに、真面目な顔でうなずいた。
「温度管理が必要なんですね。こちらも、紙の湿度と温度で伸び縮みします。似ています」
「……似て、ますか」
「ええ。どちらも、手を抜くと嘘をつく」
優は、思わず小さく息を漏らした。笑っていいのか、感心していいのか迷って、結局、口元だけが少しゆるむ。颯人は電話を取り、外線でどこかへ手配を始めた。話す内容は速くて専門用語が多いのに、声の調子だけは優に向けるときと変わらない。
十分ほどで通話が終わると、颯人は「これで補修の段取りがつきました」と言い、優に一枚の紙を差し出した。コピーしたページの一覧だ。
「この部分だけ、あなたの目で確認してほしい。昨日、あなたが見た位置にあったから、気づけることがあると思う」
「私の……目で」
「はい。責任は私が負います。ただ、あなたの協力が必要です」
優の胸の奥で、何かがほどける音がした。「私がやりました。」と書いた白いメモの文字が、責められるための鎖じゃなく、手を差し出すための糸に変わった気がする。
「わかりました。見ます。……見て、足りないところがあったら、言います」
颯人は、今度こそ少し笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、場所を変えましょう。ここは冷えます」
*
十二時半。ホテルのすぐ外、ガラス張りの小さなカフェ。人の声がやわらかく反響し、窓際の席には冬の光が薄く落ちていた。優の前には、砂糖を入れていない紅茶。颯人の前には、同じく砂糖なしのコーヒー。
「甘くしないんですね」
「甘くすると、午後に眠くなるので」
「……同じです。私も、仕込みのときは甘いのを避けます。味見が狂うから」
言い終えてから、優は気づく。味見が狂う、という言い方は、ホテルの人に通じるのだろうか。けれど颯人は、あっさりとうなずいた。
「理屈が分かりやすい。あなたは理由を持って選ぶんですね」
「理由がないと、手が止まるので……。迷うと、焼き色が変わります」
「迷うと、こちらも顔に出ます。取引先は鋭い」
カップの縁を指でなぞりながら、優は少しだけ肩の力を抜いた。昨日からずっと、謝る言葉だけが口の中に溜まっていた。でも、今は謝る以外の言葉を出したい。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
喉が震えた。優は、逃げないように颯人の目を見る。颯人は一拍置いて、深く息を吸った。
「こちらこそ。来てくれて助かりました。……白いメモ、見ました」
「……捨てて、ください」
「捨てません。あれは、あなたが逃げなかった証です」
優は、指先が熱くなるのを感じた。自分の書いた、たった一行が、誰かの口から「証」として返ってくる。胸の奥に、恥ずかしさと、少しの誇らしさが混ざる。
颯人はスマートフォンの画面を見ながら、淡々と次の手配を確認している。けれど、優の手元に空になったお冷やのグラスがあるのを見て、店員を呼び、さりげなく水を追加してくれた。言葉より先に、手が動いている。
「……いつも、そうやって気づくんですか」
「気づけるように、癖にしてます。昔、誰かに助けられたので」
「誰か……」
「詳しくは、また今度」
それ以上を聞かないのが礼儀だと、優の中の何かが判断する。優はうなずき、持参した小さなメモ帳に、必要な確認点を箇条書きにした。店のレシートの裏ではない。今は、ちゃんとした紙に書きたかった。
「今日中に確認して、夕方までに連絡します」
「無理しないで。あなたの土曜は、あなたのものです」
その言葉に、優は小さく首を傾げる。
「でも、私が……」
「あなたがやったから、あなたが全部背負う、ではないです。——共同で直します」
共同。優はその言葉を口の中で転がし、何度か確かめる。まだ遠い。でも、遠いからこそ、手が届くように感じた。
*
土曜の夜。優の六畳の部屋は、昼間より少しだけ暖かかった。電気ポットの湯気が窓に白く曇りを作り、外では遠くの車の音が途切れ途切れに聞こえる。机の上には、帰り道で買った安いノートパソコンと、開きかけのままのメモ帳。
優は指先をほぐし、慎重にキーボードに触れた。画面の中に「新しいブログを作成しますか」と表示される。昔の下書き——『これは好きの残骸です』——のタイトルが、頭の片隅でちらついた。あれは、過去の気持ちを整理するための言葉だ。今夜書きたいのは、それとは違う。
入力欄に、優はゆっくりと文字を打つ。
『何気ない日常を淡々と描いた物語』
指が止まる。長い。けれど、これがいい。派手な言葉で飾るより、毎日の手順と、ふとした一言の重さを残したい。
最初の投稿の欄に、短く書いた。
「土曜の十時。怒られなかった。怒られないって、こんなに怖い。けど、少しだけ安心した。ありがとうと言えた。」
送信ボタンを押す直前、優は深く息を吸った。誰に読まれなくてもいい。自分が自分に嘘をつかないために書く。
送信。
画面に「投稿しました」と表示された瞬間、優は椅子の背にもたれた。胸の中に、まだ小さな灯りがともっている。笑いそうで、泣きそうで、どちらでもないまま。
スマートフォンが震えた。裕喬からの短いメッセージだ。
『無事? 今日は寝ろ』
優は「はい」とだけ返し、布団を引き寄せる。布団の中で、昼のカフェの光と、颯人の「共同で直します」という声が、ゆっくりと反芻された。
明日は朝五時に起きる。卵白の温度を見る。砂糖のタイミングを逃さない。その上で、今日の続きを生きる。
優は目を閉じた。土曜の終わりに、まだ続きがあると知ったまま。