エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

回想~別れ

 強い風が高い川縁を吹き抜けて、朱里の髪を揺らしていた。
 高速道路の向こうに、沈みかけた夕陽が茜色に広がっている。

「ねえ、神崎くんさ……高校、もう決めた?」

 不意に、朱里が問いかけた。
 教室では話せないことを、ここでは自然に口にできる。

 彼とは頭の出来が違うので、多分同じ高校には行けないだろうと漠然と思っていた。

 朔也は隣で座ったまま沈黙した。
 夕焼けの空を見上げている。

「……」

 返事がない。

 やっぱり、私なんかには話す気はないのだろうか。
 少し不安になって、朱里は彼に視線を向ける。
 彼はほんのわずかに目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。

「来週、引っ越すことになった。母親の実家に帰るんだと」
「──えっ?」

 朱里は一瞬、言葉の意味を理解できずに、目を見開いた。
 心臓が、ひゅうっと音を立てて落ちていくようだった。

「今の家からも、学校からも離れたとこ。新しい学校に転校になる」
「……え、じゃあ……卒業、こっちでは……」
「しない。来週にはもういない」

 淡々と語る朔也の声は、どこまでも冷静で、あまりにも現実味がなかった。
 でもその瞳の奥には、微かに揺れるものがあるのを、朱里は見逃さなかった。

「そんな、急すぎるよ……。どうして、今言うの」
「言うつもりなかった。……どうせ、おまえに関係ねぇことだし」
「関係、あるよ……!」

 思わず朱里は強い声を出していた。

「ずっと一緒にいたじゃん、放課後でも、図書室でも……。一番近くで話してたのに、何も言ってくれないなんて、悲しいよ」

 朔也はゆっくりと視線を朱里に向けた。
 風に吹かれて赤くなった頬、唇を噛み締めるようにしている朱里。

「……ごめん」

 短く、低い声だった。

 それ以上、何も言わない朔也に、朱里は震える声で尋ねた。

「連絡……取れる?スマホ、ある?」
「……持ってねぇ」

 朱里は何も言えなくなった。
 朔也も言葉を閉ざしたまま、ふたりの間にまた冷たい風が吹き抜けた。

 こんなふうに終わってしまうの?
 せっかく、少しずつ心を開いてきたのに。

「……そっか」

 そう言って俯いた朱里の髪が揺れる。
 何かを言おうとして、けれど言えずに、ただ風の音だけが二人の間に流れた。

「じゃあ、元気でね……」

 そう、呟いた言葉が精一杯だった。

 朔也は何も言わず、ただひとつ頷いた。

 何かを言えば、今にも涙が出てしまいそうで、朱里は視線をそらした。

「……藤井」

 その時だった。
 沈黙を破ったのは、朔也のほうだった。

「……朝焼け、見よう」
「え……?」

 朱里はゆっくり顔を上げた。
 朔也は、まっすぐにこちらを見た。いつもの、無愛想な顔のままで。

「前に、ここで朝焼けを見たことがある。すげぇ、キレイだった。おまえがいいなら、一緒に見たい」
「うん……っ」

 朱里は、何も言えなくなった。

「晴れの日、調べないとな。決めるの、前日でもいいか?」

 ほんの一瞬、朱里の瞳が揺れた。

「……私、スマホあるよ。番号、教えるから……」

 震える声で、ポケットからスマホを取り出しながら言う。

「連絡して。約束……だから」

 朔也は少し迷ってから、無言で頷いた。
 その目には、ほんの少しだけ、微かな光が差していた。

「……寝坊すんなよ」
「うん、絶対に」

 その言葉が、ふたりの“約束”になった。


 ***


 夜の静けさの中、ベッドの上に寝転びながらスマホを握っていた。
 不意に鳴った通知音に心臓が跳ねる。
 見慣れない番号。

 まさか、と思って出ると予感は的中した。

『……藤井か?』
「……神崎くん?」
『ああ』

 静かに返ってくる何度も聞いた低めの声。電話越しに聞くと、いつもより少し優しい。

『明日、晴れるってさ。朝、行けるか?』
「ほんと? やった……!」

 思わず声が弾んでしまう。慌てて布団を口元に引き寄せて声を潜めた。

「……いつものとこ?」
『ああ、日の出、五時半くらいだ』
「わかった。……私、絶対行くから」
『……ん』

 やりとりはそれだけ。
 でも、電話が切れたあと、朱里の手はしばらくスマホを握ったままだった。
 胸が、じんと熱かった。

(明日……神崎くんに、言おう)

 伝えなきゃ。
 この気持ちが“恋”なのか、自分でもまだよくわからない。
 でも、会えなくなる前に──ちゃんと、伝えたい。

 今の、精一杯の気持ちを。

 そんな決心と、少しの不安を胸に、朱里は目覚ましをセットする。

 明日は、特別な朝になる。
 きっと、忘れられない朝になる。

 ──その時だった。

「朱里」

 背筋が凍った。
 ドアが開く音。母が、立っていた。
 腕を組み、険しい目つきで私を見ている。

「今の、誰?」
「……え、友達だよ。女子。明日の集合時間の話してて……」
「本当?」
「……うん」

 苦しい。汗が滲む。すぐにバレるって、わかってる。
 でも、言えなかった。彼と約束したこの特別な夜を、否定されたくなかった。

 母は一歩踏み出し、私の手からスマホを抜き取った。

「ちょっと見せて」
「やだ! 勝手に……!」
「見られて困ること、してるの?」

 鋭い言葉。
 私は、言い返せなかった。

 画面にはまだ、通話履歴が残っている。
 ──名前はない。けれど、知らない番号と時間で、母の目は確信に変わった。
 無言でかけなおそうとする母を必死で止める。

「待って!だめ!かけないで!お願い!」
「中学三年生が、受験生が……こんな時間に電話して!あなた塾もさぼってるんでしょう!知ってるんだからね!」
「ちがう、ほんとにちがうの。塾は……ちょっと、疲れて……でも、そんなつもりじゃ──」
「スマホは没収。明日も行っちゃだめよ」
「やだ……返してよ!」

 泣きそうになる声で訴えた。
 けれども、母はそれを無視して部屋を出ていく。
 ドアの閉まる音が、心臓に鋭く突き刺さった。


***

 
 早朝。目覚ましが鳴るよりも早く、朱里は目を覚ましていた。
 カーテンの隙間から、まだ夜と朝のあいだみたいな薄い青が滲んでいる。

(……行かなきゃ)

 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
 約束した。待ってるって言ってた。

 静かにベッドを抜け出し、制服を手に取る。
 音を立てないように、ゆっくり袖を通した。ボタンを留める指が、少し震える。

 スマホは、ない。それでも――行って、謝らなきゃ。

 靴下を履き、そっとドアを開ける。
 廊下はしんと静まり返っていて、家全体が眠っているみたいだった。

 一歩、踏み出す。
 玄関が見える。

 鍵に手を伸ばしかけた、その時。
 背後で、床の軋む音がした。
 朱里は、凍りついた。

(……だめ!)

 怖い。
 もし見つかったら。また止められたら。理由を聞かれたら、説明なんてできない。

 朱里は恐る恐る後ろを振り向く。
 誰もいない。

 けれど、玄関の鍵に触れることもできず、ただ立ち尽くしたまま。
 窓の外が、少しずつ明るくなっていく。

(……神崎くん)

 今ごろ、もう来ているだろうか。
 ひとりで空を見上げて待っているだろうか。
 胸が苦しくて、涙がこぼれた。

 朱里は音を殺して部屋へ戻り、ベッドに座り込んだ。
 制服のまま膝を抱える。

 カーテンの向こうでは朝が始まっていた。

「……約束したのに……」

 彼の声が頭の中に響いていた。
 明日、晴れるって──あんなに嬉しそうに言ってくれたのに。

 もう、伝えられない。
 ごめんも、行けない理由も。
 私は、彼との約束を、破ってしまう。

 彼がどんな気持ちで待つのかを思うと、胸が張り裂けそうだった。


 ***


 高校の受験が終わって、朱里の手元に、やっと戻ってきたスマホがある。
 画面には、朔也からの着信が2件だけ残されていた。
 あの日、約束の時間の1時間後と、2時間後にも、もう一件。

 そして、そのまま何も言わず、誰にも会わずに彼はいなくなった。

 触れたくても触れられない、その名前の重み。
 声を聞きたくても、もう届かないその声。

 指が震えて、何度も画面を見つめる。
 涙が静かに頬を伝い落ちていく。

 「ごめんね……」

 言葉は届かないけれど、胸の奥で何度も繰り返す。

 朝焼けを一緒に見られなかった。
 あの時、家を出ていく勇気がなかった。

 それは、これから先もずっと、消えない記憶になる。
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