エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
再会
「神崎くんは都内の法科大学院を卒業後、ストレートで司法試験に合格した優秀な弁護士なんですよ」
そう言って前任の顧問弁護士、佐原が彼を紹介する。
引退準備に入った佐原から、後任が引き継がれる──その初顔合わせが、今日だった。
「ちょうど1年前に私の事務所に入所して、今は企業法務を中心に担当しています。年齢は25歳ですが、実務でも落ち着きがあり、信頼のおける人物です」
佐原はそう続ける。
朱里は視線を逸らせずにいた。
「若輩者ですが、何かあれば直ぐに対応致します、よろしくお願いします」
彼は静かに、けれど確かな存在感で言葉を紡いだ。
その声に、過去の記憶と今の現実が混ざり合い、胸の奥でざわつく。
「頼もしいですね。佐原先生も心強いでしょう」
隣で朱里の上司である総務課の課長がにこやかに称賛する。
「25歳なら、ちょうど藤井さんと同じ年だね」
「は、はい」
急に振られてドギマギした。
「藤井はうちの法務対応の窓口を担っておりまして。入社三年目ですが、契約や著作権関係は一通り任せています。出版業界は法務が要ですから、今後は彼女が主に窓口になります」
「承知致しました。業務については、追ってメールでやり取りをさせていただきます」
朔也は朱里に一瞬視線を戻し、すぐに目を逸らす。
まるで最初から他人であるかのような、完璧に整えられた態度。
「それでは、今日はこの辺で失礼します」
前任の佐原弁護士が立ち上がり、軽く頭を下げる。
朔也もそれに倣い、ソファから立ち上がった。
立ち姿のスマートさに、また少し心がざわめく。
「ご挨拶だけで失礼します。今後、ご相談の際は直接私宛にご連絡下さい」
そう言って朱里に一礼し、彼は静かに扉へと向かった。
──たったそれだけの会話。
けれど、朱里の心の中では、10年という時間が揺れていた。
課長がドアを開け、佐原に続いて朔也が一度も振り返らずに部屋を出ていく。
(……私のこと、覚えてないの?)
朱里は微かに唇を噛んだ。
「ご案内いたします」
名残惜しさを自覚する前に、朱里は反射的に声を出していた。
課長と軽く会釈を交わし、ふたりの弁護士を先導して応接室を出る。
廊下を歩きながら、何度か話しかけようかと迷った。けれど、足音だけが乾いた床に小さく響いて、言葉は喉で消えていった。
エレベーター前。朱里が操作パネルに指を伸ばし、下りのボタンを押す。
「……本日はありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
表情だけはきちんと作って、丁寧に頭を下げる。
佐原が軽く頷いたあと、朔也が一歩前に出た。
「こちらこそ、よろしくお願いします。藤井さん」
その一言。
名前を呼ばれただけで、朱里の胸が跳ねた。
扉が開く。
朔也が軽く頭を下げ、エレベーターに乗り込んだ。
その瞬間、ふと、彼の目がこちらを見た。
何かを伝えるでも、問いかけるでもなく、ただ確かめるように──
十年前と変わらないまなざしで。
***
扉が閉まり、朱里は静かに深呼吸した。
(……絶対に、神崎くんだ)
確信が胸の奥に広がっていく。
けれど同時に、何もなかったように振る舞った彼の態度が、ほんの少しだけ、心をざらつかせた。
応接室を片付け、デスクへと戻る廊下。
朱里の足取りは、いつもよりわずかに遅かった。
フレアのスカートが揺れるたび、まだ胸の奥でざわざわと何かが騒いでいた。
(……知らないふりしてたな)
頭では理解している。仕事の場で私的な感情を持ち込むのは大人げないし、なにより彼は“弁護士”としてここに来たのだ。
でも、あの目。あの声。
やっぱり、間違いようがない。
神崎朔也だ。
朱里は自分のフロアのドアを押し、静かにデスクに戻った。
ちょうど昼前の忙しい時間帯で、誰も彼女のわずかな動揺には気づかない。
マウスを動かすと、パソコンの画面が休止状態から明るくなった。
パスワードを入力して、メールのアイコンをクリックした。
受信トレイには午前中のやりとりのメールがいくつか溜まっていて、現実がじわりと押し寄せてくる。
(……仕事しなきゃ)
そう言い聞かせるようにキーボードに指を置く。けれど、思考は戻らない。
ふと、朱里は隅に伏せていた名刺入れを手に取った。
さっき受け取ったばかりの名刺を、そっと引き出す。
佐原法律事務所
弁護士 神崎 朔也
Sakuya Kanzaki
(……やっぱり)
名前を見た瞬間、胸の奥に張り詰めた糸がきゅっと鳴った。
(一生、会わないと思っていた)
けれど、目の前に現れた。しかも今後は、業務で関わる存在として。
それが、嬉しいのか、苦しいのか、自分でもまだ分からなかった。
(でも……こんな形で、再会するなんて)
それでも、どこかでふわりと心が浮く。
緊張と不安、喜びと戸惑いが、胸の奥で複雑に絡まりながら、朱里の中でほどけていく。
画面の向こうの業務メールに目を戻しながら、朱里はそっと机の引き出しに名刺をしまった。
今はまだ、整理がつかない。
でも、きっと近いうちにまた──。
(……会える)
そう思った瞬間、心のどこかが少しだけ温かくなった。
そう言って前任の顧問弁護士、佐原が彼を紹介する。
引退準備に入った佐原から、後任が引き継がれる──その初顔合わせが、今日だった。
「ちょうど1年前に私の事務所に入所して、今は企業法務を中心に担当しています。年齢は25歳ですが、実務でも落ち着きがあり、信頼のおける人物です」
佐原はそう続ける。
朱里は視線を逸らせずにいた。
「若輩者ですが、何かあれば直ぐに対応致します、よろしくお願いします」
彼は静かに、けれど確かな存在感で言葉を紡いだ。
その声に、過去の記憶と今の現実が混ざり合い、胸の奥でざわつく。
「頼もしいですね。佐原先生も心強いでしょう」
隣で朱里の上司である総務課の課長がにこやかに称賛する。
「25歳なら、ちょうど藤井さんと同じ年だね」
「は、はい」
急に振られてドギマギした。
「藤井はうちの法務対応の窓口を担っておりまして。入社三年目ですが、契約や著作権関係は一通り任せています。出版業界は法務が要ですから、今後は彼女が主に窓口になります」
「承知致しました。業務については、追ってメールでやり取りをさせていただきます」
朔也は朱里に一瞬視線を戻し、すぐに目を逸らす。
まるで最初から他人であるかのような、完璧に整えられた態度。
「それでは、今日はこの辺で失礼します」
前任の佐原弁護士が立ち上がり、軽く頭を下げる。
朔也もそれに倣い、ソファから立ち上がった。
立ち姿のスマートさに、また少し心がざわめく。
「ご挨拶だけで失礼します。今後、ご相談の際は直接私宛にご連絡下さい」
そう言って朱里に一礼し、彼は静かに扉へと向かった。
──たったそれだけの会話。
けれど、朱里の心の中では、10年という時間が揺れていた。
課長がドアを開け、佐原に続いて朔也が一度も振り返らずに部屋を出ていく。
(……私のこと、覚えてないの?)
朱里は微かに唇を噛んだ。
「ご案内いたします」
名残惜しさを自覚する前に、朱里は反射的に声を出していた。
課長と軽く会釈を交わし、ふたりの弁護士を先導して応接室を出る。
廊下を歩きながら、何度か話しかけようかと迷った。けれど、足音だけが乾いた床に小さく響いて、言葉は喉で消えていった。
エレベーター前。朱里が操作パネルに指を伸ばし、下りのボタンを押す。
「……本日はありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
表情だけはきちんと作って、丁寧に頭を下げる。
佐原が軽く頷いたあと、朔也が一歩前に出た。
「こちらこそ、よろしくお願いします。藤井さん」
その一言。
名前を呼ばれただけで、朱里の胸が跳ねた。
扉が開く。
朔也が軽く頭を下げ、エレベーターに乗り込んだ。
その瞬間、ふと、彼の目がこちらを見た。
何かを伝えるでも、問いかけるでもなく、ただ確かめるように──
十年前と変わらないまなざしで。
***
扉が閉まり、朱里は静かに深呼吸した。
(……絶対に、神崎くんだ)
確信が胸の奥に広がっていく。
けれど同時に、何もなかったように振る舞った彼の態度が、ほんの少しだけ、心をざらつかせた。
応接室を片付け、デスクへと戻る廊下。
朱里の足取りは、いつもよりわずかに遅かった。
フレアのスカートが揺れるたび、まだ胸の奥でざわざわと何かが騒いでいた。
(……知らないふりしてたな)
頭では理解している。仕事の場で私的な感情を持ち込むのは大人げないし、なにより彼は“弁護士”としてここに来たのだ。
でも、あの目。あの声。
やっぱり、間違いようがない。
神崎朔也だ。
朱里は自分のフロアのドアを押し、静かにデスクに戻った。
ちょうど昼前の忙しい時間帯で、誰も彼女のわずかな動揺には気づかない。
マウスを動かすと、パソコンの画面が休止状態から明るくなった。
パスワードを入力して、メールのアイコンをクリックした。
受信トレイには午前中のやりとりのメールがいくつか溜まっていて、現実がじわりと押し寄せてくる。
(……仕事しなきゃ)
そう言い聞かせるようにキーボードに指を置く。けれど、思考は戻らない。
ふと、朱里は隅に伏せていた名刺入れを手に取った。
さっき受け取ったばかりの名刺を、そっと引き出す。
佐原法律事務所
弁護士 神崎 朔也
Sakuya Kanzaki
(……やっぱり)
名前を見た瞬間、胸の奥に張り詰めた糸がきゅっと鳴った。
(一生、会わないと思っていた)
けれど、目の前に現れた。しかも今後は、業務で関わる存在として。
それが、嬉しいのか、苦しいのか、自分でもまだ分からなかった。
(でも……こんな形で、再会するなんて)
それでも、どこかでふわりと心が浮く。
緊張と不安、喜びと戸惑いが、胸の奥で複雑に絡まりながら、朱里の中でほどけていく。
画面の向こうの業務メールに目を戻しながら、朱里はそっと机の引き出しに名刺をしまった。
今はまだ、整理がつかない。
でも、きっと近いうちにまた──。
(……会える)
そう思った瞬間、心のどこかが少しだけ温かくなった。