エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
「朱里ちゃん、風邪治ったの?」
「うん、もう大丈夫。ありがと」

 朝のホームルーム前、隣の席の女子が心配そうに声をかけてくれた。
 朱里は「迷惑かけちゃってごめんね」と小さく笑い、教科書を取り出す。

 その横を、無言で通り過ぎた影があった。

 神崎朔也。
 無表情のまま、自分の席へ向かっていく。朱里が席に着いたのを確かめるように、ほんの一瞬だけ、彼の視線が揺れた。


 昼休み。

「朱里ちゃん、一緒に食べよ」
「うん、行こ」

 友人と連れ立って教室を出ようとした朱里が、ふと朔也の席に目をやる。
 朔也は今日は図書室ではなく、教室の自分の席でひとり、弁当を広げていた。

 その背筋はまっすぐで、いつものように誰にも目を向けず、教科書を開いたまま食べている。

 放課後見せたあの不器用な優しさも、朱里に上着を貸してくれた仕草も、まるでなかったかのような態度。

「神崎くん……あいかわらずだね」

 朱里がぽつりと呟くと、隣で友人が囁いた。

「……朱里ちゃん、もしかしてあの人と、何かあった?」
「え? ……ううん、何もないよ」

 朱里は笑って答えながら、どこか寂しげに目を逸らした。
 教室ではあくまで、彼は“ひとり”。
 でも、それが今のふたりにとって、きっと“ちょうどいい距離”なのだ。


 お昼を食べ終わって、朱里は席を立つ。
 今週は委員会当番ではなかったけれど、朱里は図書室に来ていた。

 なんとなく、彼がいるような気がして。

 やっぱり、いた。
 休憩スペースではなく、今日は読書スペースの椅子に座って本を読んでいる。

 無言のまま、その隣に腰を下ろした。
 ふたりの間にわずかな空気の揺らぎ。

 朔也は読んでいた本から視線を上げる。

「来てたんだ」
「……おまえこそ」

 朔也の目が、一瞬だけ朱里の顔をまじまじと見つめた。その目に、どこか探るような色が宿る。

「なんか……ちょっと、久しぶりだよね」

 朱里は少し声のトーンを落として囁くと、朔也は目を逸らして、再び本を読み始めた。

「……休んでたんだろ」
「え?……うん、風邪ひいて寝込んでた。熱も出ちゃって。ようやく治ったけど」
「……」

 彼はしばらく何も言わなかった。けれど、朱里のほうも無理に言葉を繋げようとはしない。
 ふたりの間に、静かな時間が流れていく。

「……もう平気なのか」
「ん?」

 朱里がきょとんとして見上げると、朔也はあからさまに目を逸らした。

「……別に、気になっただけ。風邪とか移されるの、めんどいし」
「……ふふ。そっか。気遣ってくれたのかと思った」
「違ぇし」
「はいはい、ありがと。神崎くんの優しさ、ちゃんと受け取りました」

 からかうような朱里の笑顔に、朔也は少しだけ顔をしかめて、本を閉じる。
 けれど、片手で隠れた頬が、ほんのり赤くなっていたのを、朱里は見逃さなかった。

「……あ、神崎くん、顔赤い。風邪移った?」
「……うるせぇ」
「ふふっ、ごめん」

 朱里が笑うと、朔也は小さく鼻を鳴らして、それきり黙る。
 でも、その沈黙は、どこか心地よいものだった。

 ふたりの時間が、また少し、温度を増した気がした。
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