エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
朝の通勤電車はいつも通り混んでいて、朱里は吊革に掴まったままぼんやりと窓の外を見ていた。
思考は昨日のあの再会の場面から離れない。
神崎朔也。
あの人が今、弁護士で自分の職場の顧問弁護士になるなんて。
しっかりした口調。落ち着いた所作。あの頃と変わらないシャープな眼差し。
中学の頃とは違う、大人の男の人。
けれど、確かに彼は朔也だった。
朱里は都内の私立大学を卒業後、明月出版に入社し、今年で三年目になる。
配属は編集部ではなく総務部。今は法務関連を主に担当している。
中でも朱里が主に担当しているのが、法務関連だった。契約書の確認、著作権管理、トラブル時の初動対応。出版業は想像以上に法律と密接に結びついている。だからこそ、顧問弁護士との連携は欠かせない仕事だ。
デスクに着いてすぐにパソコンを立ち上げる。
自動で起動するメールソフトの未読メールを流し見しながら、指先がふと止まった。
──挨拶メール、送った方がいいのかな。
新規作成メールを開き、名刺に記載された朔也のメールアドレスを打ち込む。
【佐原法律事務所
神崎朔也先生
お世話になっております。
先日はご挨拶いただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。】
朱里はキーボードを打ち終えた画面をじっと見つめる。
(……味気ないなー)
特に用があるわけじゃない。
これは限りなく業務外に近い、ただの挨拶メールだ。
別に送らなくてもいいし、送ったところで失礼に当たるものではないけれど──。
(多分……本当に送りたいのは、こんな上辺の言葉じゃないんだよね)
彼は間違いなく、あの神崎くんなのに。
「やっぱり、やめておこう……かな」
音もなく、指がDeleteキーを押す。
(でも、何も言わないのも、冷たいかな)
朱里はもう一度、件名を打ちかけて、また手を止めた。
(どうして、こんなに迷うんだろう)
ほんの一言、挨拶をするだけ。
それすらできない自分に、情けなさが募っていく。
「はあ〜……」
(結局、私……何も変われてないのかな)
朱里はそっと息を吐き、画面を閉じた。
パソコンの前で一人、胸の奥がずきずきと疼いている。
その後、昼休憩を終え、朱里がオフィスの自席に戻ると、受信フォルダに新着メールの通知が点灯していた。
いつものように社内連絡だろうと思いながら開いた画面の中に、見慣れないメールアドレスがひとつ混じっている。
【差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)】
【件名:先日のご挨拶について】
ドキリとする心音を感じながら、朱里は画面をクリックした。
【件名:先日のご挨拶について
差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)
明月出版 総務担当
藤井朱里様
お世話になっております。
昨日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
改めて、今後御社のご相談を担当させていただきます神崎です。
前任の佐原より引き継ぎを受けながら、誠実に対応してまいります。
何かございましたら、いつでも遠慮なくご連絡ください。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
佐原法律事務所 神崎 朔也】
その文面は、どこまでも丁寧で、業務上の挨拶としては完璧だった。
けれど、朱里にはあの時の目の奥にあった、微かな揺らぎが蘇る。
きっと、彼も迷っていた。
何故かそんな予感がした。
震える指先で朱里はマウスを握り直し、返信画面を開く。
鼓動が少しだけ軽くなっていた。
【件名:RE: 先日のご挨拶について
差出人:藤井朱里(明月出版 総務部)
宛先:神崎朔也(佐原法律事務所)
佐原法律事務所
神崎朔也先生
お世話になっております。
明月出版 総務部の藤井です。
ご丁寧なご連絡、ありがとうございます。
今後、業務でご相談させていただくこともあるかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします。
昨日は、少し驚いてしまい、失礼があったかもしれません。
変わらずお元気そうで、何よりでした。
また改めて、お話できる機会があれば嬉しく思います。
藤井 朱里
明月出版 総務部】
朱里にしては、かなり、勇気を出した。
迷って、迷って、迷って、
でも、やっぱりどうしても送りたくて、送信のマークをクリックした。
こうでも書かないと、この先進めない気がしたのだ。
送信した瞬間、逃げ出したいような気になる。
「藤井さん?どうかしました?」
隣の席の後輩が心配そうな顔で覗き込んで来た。
「ん。ごめんね、何でもないの。ちょっと席外します」
デスクに座っていることができなくて、頭を冷やそうと自販機のある簡易的な休憩ルームに駆け込んだ。
ああ。
彼は今、メールを見ているだろうか。
なんて思ったかな。
返信に困ったりしてるんだろうか。
まさか、ビジネスの場で怒ったりしないよね。
それとも、スルーかな。
きっと、そうだよね。
ドキドキして送ったけど、別に業務外の挨拶メールだ。
返信が来なくてもおかしくはない。
(彼にしてみれば、私なんて会いたくなかったかもしれないのに……)
ペットボトルの冷えたお茶を買うと、額に当てて顔の熱を冷ました。
こんなにドキドキして、メールに一喜一憂して、これから仕事になるんだろうか。
深い溜息を吐いて、朱里はようやく休憩ルームを出た。
足取りも重く、自分のデスクに着くと、さっそくパソコンには未読のメールが数件来ていた。
怖いけど、仕事なんだから見ないわけにはいかない。
彼からのメールは、彼女が送信してから5分も経たないうちにきていた。
(どうしよう。きっと、私信の部分はスルーで、ただの挨拶文だよね?怒ってないよね、気を悪くしたとしても、大人なんだから──)
ぐるぐるとわけの分からないことを考えながら、勇気を振り絞って、件名をクリックした。
ぎゅっと閉じていた目をそっと開ける。
【件名:RE:RE: 先日のご挨拶について
差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)
藤井朱里様
ご丁寧な返信を頂き、ありがとうございます。
こちらこそ、お変わりない様子を拝見できて安心しました。
季節の変わり目ですので、どうぞご自愛ください。
今後ともよろしくお願い致します。
佐原法律事務所 神崎 朔也】
「……っ!」
彼は、あの中学の思い出をなかったことにしてはいなかった。
それだけで、涙が溢れてしまいそうになる。
画面を閉じた指先が、そっと震えた。
宝物のメールだ、と思った。
誤って消去しないように保護までした。
(……ありがとう)
そして心の中で、朱里は朔也にお礼を言った。
午後のオフィスは、いつもより少しだけ眩しい。
窓から差し込む陽射しが、資料の白い紙に反射して、朱里の目元を照らしている。
「……集中、集中……」
そう自分に言い聞かせながらも、思考の端に、つい彼からのメールが浮かんでしまう。
昔から少し不器用で、でも誠実で、真っ直ぐなところは全然変わっていなかった。
(“お変わりない様子を拝見できて安心しました。”か)
あの一文を何度も思い出してしまうのだ。
言葉としては無難で、業務的で、どこまでも礼儀正しいのに、そこに2人だけが分かる文章が滲んでいて、その温度が、じわじわと胸の奥を温めていた。
***
「藤井?こんなとこに来るの珍しいじゃん」
帰り際、先程の休憩ルームに忘れたハンカチを取りに行ったところ、同期入社の北村とばったり会った。
朱里の同期入社は全部で8人。
そのうち辞めた人を除くと現在は5人。
北村はそのうちの一人で、よく話す方だった。
「ああ、ちょっと忘れ物」
無事にハンカチを見つけるとヒラヒラとそれを振って応える。
「忘れ物?って、一回来たってことだよな?」
彼は缶コーヒーに口をつけて飲み干すと、怪訝な顔をする。
「まあ、ね。……それより、どうしたの?なんか、やつれてない?」
詳しく話す気になれなくて、さり気なく話題を変えようとするも、北村は本当に上から下まで全身疲労感が漂っていた。
「それがさあ、俺の担当してる作家が炎上騒ぎになってさ。今めちゃめちゃ大変」
編集部所属の北村は直接作家と遣り取りすることの多い部署だ。所謂、出版会社の花形。
「わあ、それはご愁傷様」
「ほんと勘弁してくれよ。盗作だってさ」
空の缶をゴミ箱に捨てながら、彼は大きく溜息を吐く。
「何かあったら話聞くから、頑張ってね」
ポンポンと肩を叩いてその場を離れる。
「あ〜……おーい、藤井〜」
まだまだ話し足りなそうな北村を残して、早々に帰り支度をする。
彼には悪いが朱里の頭はそれどころではなかった。
浮ついた気持ちをなるべく抑えながら、帰路に着く。
彼女は明日からの業務に思いを馳せていた。
思考は昨日のあの再会の場面から離れない。
神崎朔也。
あの人が今、弁護士で自分の職場の顧問弁護士になるなんて。
しっかりした口調。落ち着いた所作。あの頃と変わらないシャープな眼差し。
中学の頃とは違う、大人の男の人。
けれど、確かに彼は朔也だった。
朱里は都内の私立大学を卒業後、明月出版に入社し、今年で三年目になる。
配属は編集部ではなく総務部。今は法務関連を主に担当している。
中でも朱里が主に担当しているのが、法務関連だった。契約書の確認、著作権管理、トラブル時の初動対応。出版業は想像以上に法律と密接に結びついている。だからこそ、顧問弁護士との連携は欠かせない仕事だ。
デスクに着いてすぐにパソコンを立ち上げる。
自動で起動するメールソフトの未読メールを流し見しながら、指先がふと止まった。
──挨拶メール、送った方がいいのかな。
新規作成メールを開き、名刺に記載された朔也のメールアドレスを打ち込む。
【佐原法律事務所
神崎朔也先生
お世話になっております。
先日はご挨拶いただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。】
朱里はキーボードを打ち終えた画面をじっと見つめる。
(……味気ないなー)
特に用があるわけじゃない。
これは限りなく業務外に近い、ただの挨拶メールだ。
別に送らなくてもいいし、送ったところで失礼に当たるものではないけれど──。
(多分……本当に送りたいのは、こんな上辺の言葉じゃないんだよね)
彼は間違いなく、あの神崎くんなのに。
「やっぱり、やめておこう……かな」
音もなく、指がDeleteキーを押す。
(でも、何も言わないのも、冷たいかな)
朱里はもう一度、件名を打ちかけて、また手を止めた。
(どうして、こんなに迷うんだろう)
ほんの一言、挨拶をするだけ。
それすらできない自分に、情けなさが募っていく。
「はあ〜……」
(結局、私……何も変われてないのかな)
朱里はそっと息を吐き、画面を閉じた。
パソコンの前で一人、胸の奥がずきずきと疼いている。
その後、昼休憩を終え、朱里がオフィスの自席に戻ると、受信フォルダに新着メールの通知が点灯していた。
いつものように社内連絡だろうと思いながら開いた画面の中に、見慣れないメールアドレスがひとつ混じっている。
【差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)】
【件名:先日のご挨拶について】
ドキリとする心音を感じながら、朱里は画面をクリックした。
【件名:先日のご挨拶について
差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)
明月出版 総務担当
藤井朱里様
お世話になっております。
昨日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
改めて、今後御社のご相談を担当させていただきます神崎です。
前任の佐原より引き継ぎを受けながら、誠実に対応してまいります。
何かございましたら、いつでも遠慮なくご連絡ください。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
佐原法律事務所 神崎 朔也】
その文面は、どこまでも丁寧で、業務上の挨拶としては完璧だった。
けれど、朱里にはあの時の目の奥にあった、微かな揺らぎが蘇る。
きっと、彼も迷っていた。
何故かそんな予感がした。
震える指先で朱里はマウスを握り直し、返信画面を開く。
鼓動が少しだけ軽くなっていた。
【件名:RE: 先日のご挨拶について
差出人:藤井朱里(明月出版 総務部)
宛先:神崎朔也(佐原法律事務所)
佐原法律事務所
神崎朔也先生
お世話になっております。
明月出版 総務部の藤井です。
ご丁寧なご連絡、ありがとうございます。
今後、業務でご相談させていただくこともあるかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします。
昨日は、少し驚いてしまい、失礼があったかもしれません。
変わらずお元気そうで、何よりでした。
また改めて、お話できる機会があれば嬉しく思います。
藤井 朱里
明月出版 総務部】
朱里にしては、かなり、勇気を出した。
迷って、迷って、迷って、
でも、やっぱりどうしても送りたくて、送信のマークをクリックした。
こうでも書かないと、この先進めない気がしたのだ。
送信した瞬間、逃げ出したいような気になる。
「藤井さん?どうかしました?」
隣の席の後輩が心配そうな顔で覗き込んで来た。
「ん。ごめんね、何でもないの。ちょっと席外します」
デスクに座っていることができなくて、頭を冷やそうと自販機のある簡易的な休憩ルームに駆け込んだ。
ああ。
彼は今、メールを見ているだろうか。
なんて思ったかな。
返信に困ったりしてるんだろうか。
まさか、ビジネスの場で怒ったりしないよね。
それとも、スルーかな。
きっと、そうだよね。
ドキドキして送ったけど、別に業務外の挨拶メールだ。
返信が来なくてもおかしくはない。
(彼にしてみれば、私なんて会いたくなかったかもしれないのに……)
ペットボトルの冷えたお茶を買うと、額に当てて顔の熱を冷ました。
こんなにドキドキして、メールに一喜一憂して、これから仕事になるんだろうか。
深い溜息を吐いて、朱里はようやく休憩ルームを出た。
足取りも重く、自分のデスクに着くと、さっそくパソコンには未読のメールが数件来ていた。
怖いけど、仕事なんだから見ないわけにはいかない。
彼からのメールは、彼女が送信してから5分も経たないうちにきていた。
(どうしよう。きっと、私信の部分はスルーで、ただの挨拶文だよね?怒ってないよね、気を悪くしたとしても、大人なんだから──)
ぐるぐるとわけの分からないことを考えながら、勇気を振り絞って、件名をクリックした。
ぎゅっと閉じていた目をそっと開ける。
【件名:RE:RE: 先日のご挨拶について
差出人:神崎朔也(佐原法律事務所)
藤井朱里様
ご丁寧な返信を頂き、ありがとうございます。
こちらこそ、お変わりない様子を拝見できて安心しました。
季節の変わり目ですので、どうぞご自愛ください。
今後ともよろしくお願い致します。
佐原法律事務所 神崎 朔也】
「……っ!」
彼は、あの中学の思い出をなかったことにしてはいなかった。
それだけで、涙が溢れてしまいそうになる。
画面を閉じた指先が、そっと震えた。
宝物のメールだ、と思った。
誤って消去しないように保護までした。
(……ありがとう)
そして心の中で、朱里は朔也にお礼を言った。
午後のオフィスは、いつもより少しだけ眩しい。
窓から差し込む陽射しが、資料の白い紙に反射して、朱里の目元を照らしている。
「……集中、集中……」
そう自分に言い聞かせながらも、思考の端に、つい彼からのメールが浮かんでしまう。
昔から少し不器用で、でも誠実で、真っ直ぐなところは全然変わっていなかった。
(“お変わりない様子を拝見できて安心しました。”か)
あの一文を何度も思い出してしまうのだ。
言葉としては無難で、業務的で、どこまでも礼儀正しいのに、そこに2人だけが分かる文章が滲んでいて、その温度が、じわじわと胸の奥を温めていた。
***
「藤井?こんなとこに来るの珍しいじゃん」
帰り際、先程の休憩ルームに忘れたハンカチを取りに行ったところ、同期入社の北村とばったり会った。
朱里の同期入社は全部で8人。
そのうち辞めた人を除くと現在は5人。
北村はそのうちの一人で、よく話す方だった。
「ああ、ちょっと忘れ物」
無事にハンカチを見つけるとヒラヒラとそれを振って応える。
「忘れ物?って、一回来たってことだよな?」
彼は缶コーヒーに口をつけて飲み干すと、怪訝な顔をする。
「まあ、ね。……それより、どうしたの?なんか、やつれてない?」
詳しく話す気になれなくて、さり気なく話題を変えようとするも、北村は本当に上から下まで全身疲労感が漂っていた。
「それがさあ、俺の担当してる作家が炎上騒ぎになってさ。今めちゃめちゃ大変」
編集部所属の北村は直接作家と遣り取りすることの多い部署だ。所謂、出版会社の花形。
「わあ、それはご愁傷様」
「ほんと勘弁してくれよ。盗作だってさ」
空の缶をゴミ箱に捨てながら、彼は大きく溜息を吐く。
「何かあったら話聞くから、頑張ってね」
ポンポンと肩を叩いてその場を離れる。
「あ〜……おーい、藤井〜」
まだまだ話し足りなそうな北村を残して、早々に帰り支度をする。
彼には悪いが朱里の頭はそれどころではなかった。
浮ついた気持ちをなるべく抑えながら、帰路に着く。
彼女は明日からの業務に思いを馳せていた。