エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
 あれから、数日後のオフィス。
 朱里の気持ちも幾分か落ち着いて来た頃、モニターに映った契約書の一文を指でなぞるように目を走らせていた。

 新刊書籍の二次利用について、協力会社から送られてきた文面に、小さな引っかかりがあるのだ。

(これ、著作権の範囲……ちょっと曖昧だな。念のため確認した方がいいかも)

 業務用メールソフトを立ち上げ、朱里は宛先に顧問弁護士の名前を入力しようとして、それだけで一瞬、指が止まった。

(……普通のやり取り。仕事、仕事)

 気を取り直して、内容を打ち始める。

【件名:書籍契約における二次利用文言の確認について

 佐原法律事務所
 神崎先生

 いつもお世話になっております。
 明月出版総務課の藤井です。

 先日、弊社が発行予定の新刊書籍に関しまして、二次利用の契約文面に不明瞭な部分がございましたので、念のためご確認をお願いできればと思い、ご連絡差し上げました。

 お手数ですが、下記添付PDFをご確認のうえ、ご見解を頂戴できますと幸いです。

 どうぞよろしくお願いいたします。


 明月出版 総務部総務課 藤井朱里】


 二、三度読み返した後、送信ボタンを押すと、朱里は小さく息を吐いた。

(普通に書いた……はず。大丈夫だよね?)

 そして、それから1時間も経たないうちに返信が来る。

【件名:RE:書籍契約における二次利用文言の確認について

 明月出版 総務担当
 藤井様

 お世話になっております。神崎です。
 ご提出いただいた文面に大きな問題はありませんでした。
 ただ一点、三段落目の表現に若干の曖昧さがあるように思われますので、下記の文案を添付します。
 引き続き、よろしくお願いします。

 佐原法律事務所 神崎朔也】


(おお、やっぱり早い……)

 前任の佐原先生は忙しかったのもあるが、朝に送ったメールが翌日、翌々日になることもしょっちゅうだった。

 効率的で、完璧。
 けれど、どこか少しだけ寂しい。

 添付された修正文を見つめながら、朱里は思う。
 業務としてしか、彼と話せないのだと。

 それでも──
 業務上とはいえ、彼とのやり取りが日常の中にある。それだけで、奇跡みたいだと思ってしまう自分がいた。

(……神崎くん、ほんとに弁護士になったんだ)

 図書室で見せた静かな横顔。
 河原でノートを広げ、無言で数式を追っていた姿。あの頃の彼が、そのまま今につながっている気がして、胸がじんと熱くなる。

 未来なんて見えないような目をしていた少年が、自分の力でここまで来たのだ。

 誇らしくて、懐かしくて──そして、少し痛い。

 ──あの朝、行けなかったこと。
 母にスマホを取り上げられ、玄関の前で立ち尽くした夜を何度も思い出す。

(私のこと、どう思っているんだろう)

 今さら答えを聞けるはずもないのに、彼のメールの行間を無意識に追ってしまう。

 朱里は胸元にそっと手を当てた。
 指先が、かすかに震える。

 ──聞きたい。
 あの朝、私が来なかったことをどう思っていたのか。あの、二度の着信の意味を。

 けれど、その一歩を踏み出す勇気は、まだなかった。


「……次の契約書、確認しないと」

 小さく呟いて自分に言い聞かせるように、画面を切り替える。

 業務でしか話せない。
 でも、業務でなら繋がっていられる──

 それが、今の朱里にとっては十分に幸せだった。


 ***


【件名:社内規定見直しに伴う確認事項

 佐原法律事務所
 神崎先生

 いつもお世話になっております。
 社内規定の一部改定にあたり、法的観点からのアドバイスをいただけますでしょうか。
 なお、詳細は添付の資料をご参照ください。

 よろしくお願いいたします。

 明月出版 総務課 藤井朱里】


【件名:RE:社内規定見直しに伴う確認事項

 明月出版 総務担当
 藤井様

 お世話になっております。神崎です。
 内容、拝見致しました。
 ご相談の部分については、現行法の範囲内で問題ありません。
 一点だけ、解釈が分かれそうな文面がありますので、再構成をご提案します。
 添付資料をご確認下さい。

 内容についてご不明な点があれば直接お電話にてご説明致しますので、遠慮なくお申し付け下さい。

 佐原法律事務所 神崎朔也】

 ある日のメールでのやりとり。
 いつものように、整った文章。冷静な語調。理路整然とした説明。

 けれど、ふとその一番下に添えられていた一文に、朱里の指が震えた。

【内容についてご不明点があれば直接お電話にてご説明致しますので、遠慮なくお申し付け下さい。】

「えっ?」

 思わず声が出てしまい、慌てて周囲に謝る。

(……電話、してもいいってこと?)

 どうしようと迷いながら、添付資料を確認する。特に分からない点はなかったが、何度も読み直して無理やり疑問点を作った。

 頭の中でやりとりをシミュレーションしながら、受話器を持つ。
 こんなことぐらいで、というような疑問点だが、きっと朔也なら受け止めてくれる、そんな気がした。

 胸の鼓動を抑えながら、朔也の名刺に書かれている携帯の番号をダイヤルする。

 呼び出し音が一回、二回──三回目で、落ち着いたあの声が応じた。

『神崎です』

 一瞬、息が止まる。
 電話越しでも伝わる、その低い声。
 変わらない。でも、少し大人びて──。

「あの……お世話になります。明月出版の藤井です。メール、拝見しました。あの、少し、お時間よろしいでしょうか」
『ええ、どうぞ』

 沈黙。
 緊張で言葉が詰まりそうになる。
 必死に平静を装おうとするけれど、喉の奥が急に乾いて、ゴホッと咳がこぼれた。

「……失礼しました」
『……風邪?』

 その瞬間、時間が巻き戻った気がした。
 あの河原で、風の冷たい日。
 自分の上着を貸してくれた、あの朔也。

「い、いえ、違います。大丈夫です」
『……寒くなりましたので、お気をつけください』

 それだけ。
 それだけなのに。

「……ありがとうございます」

 震えそうになる声を押し殺して応えた。
 受話器を握る手がじんわり熱くなる。
 頬が燃えるように熱いのは、緊張のせいか、それとも──。

 簡単に疑問点を確認してから、電話を切った瞬間、朱里は受話器をそっと戻し、深く息を吐いた。
 指先にはまだ、通話中に感じた微かな振動とあの声の余韻が残っている。

 ──寒くなりましたので、お気をつけください。

 ただの社交辞令。
 けれど彼が体調を気遣ってくれたのは、10年前の風邪を引いた時もだった。
 あの時も、ほんのわずかに眉を寄せ、照れ隠しのように「風邪とか移されるの、めんどいし」と吐き捨てて去った。
 変わらない低い声。
 変わらない、不器用で優しい温度。

(覚えてくれている……のかな)

 胸の奥がじん、と熱くなる。
 けれど同時に、あの朝焼けの約束を守れなかった痛みが、今も鋭く疼いた。

 謝りたい。できれば、あの時伝えられなかった想いも。
 でも、今さら謝っても「業務に私情を持ち込んでいる」と思われるだけかもしれない。
 10年分の距離を思うと、勇気がしぼんでいった。

 キーボードのタッチ音がまばらに響くフロアの中、ひとり冷たい手の平で頬を覆う。
 熱が逃げ切らず、鼓動だけがやたら大きく感じた。

 (でも……今は、これでいい)

 メールと電話。
 業務的なやり取りだけれど、そこに確かに朔也の存在を感じられるから。


 その夜の帰り際、モニターの未読フォルダに小さく「1」の数字が灯った。

【発信者:神崎朔也
 件名:ご相談の件

 明月出版 総務担当
 藤井様

 先程はお電話ありがとうございました。
 追加で参考になりそうな判例を共有します。ご査収ください。
 くれぐれも体調にはお気をつけて。

 佐原法律事務所 神崎 朔也】


 「くれぐれも体調には──」

 短い一文を読み返すたび、朱里の胸は甘く締めつけられた。
 ありがとう、と打つ指が震え、10年前と同じもう一つの言葉が喉まで上がってきた。

 ──ごめんね。

 けれど、その言葉はまだ送れなかった。
 指先はそっとBackspaceを押し、文面を整え直す。

【件名:RE:ご相談の件

 佐原法律事務所
 神崎先生

 迅速なご対応、ありがとうございます。
 添付資料を参考に進めてまいります。
 そちらもお忙しいと思います。どうぞご自愛くださいませ。

 総務課 藤井朱里】



 送信。
 画面の光が静まる。
 二人の間に交わされたのは、わずかな言葉とビジネスの会話だけ。
 それでも、スクリーン越しに滲む温度を感じながら、朱里は心の奥でそっと呟いた。

(次は私から、連絡してもいいのかな……?)

 窓の外には、少し早い冬の夜空。
 あの時見られなかった朝焼けとは逆方向に、星が瞬いていた。
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