エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

謝罪

 冬の夕暮れ。
 日が落ちるのが早くなった都会のビル街に、冷たい風が吹き抜けていく。
 その風に背中を押されるように、朱里は歩みを進めていた。

 目的地は、神崎朔也が所属する法律事務所のあるビル。
 数日前から、決意を固めるように何度もGoogleマップで場所を確認し、ようやく今日、足を運んだのだ。

(ちゃんと、謝ろう……。あの日のことを、ちゃんと……)

 このままではいけない。
 メールではどうしても伝えられない気持ちがある。
 あの冬の朝、自分が現れなかった理由、連絡できなかった事情、そして「ごめんね」という言葉。

 だけど──。

「……はぁ……」

 目の前にそびえるビルのガラス扉を前に、朱里の足は止まった。

(佐原法律事務所は……5階、かぁ)

 ビル内のエレベーター前にテナント名が書かれている。
 佐原先生には長年顧問弁護士としてお世話になっていたが、朱里が直接事務所に来るのは初めてだった。

(なんで、こんなに緊張するの……?)

 手のひらには冷や汗。
 心臓は、まるで廊下を走る中学生みたいに落ち着きなく跳ねている。

 あの人は、今の私をどう思っているんだろう。
 業務以外のことで来たなんて、迷惑じゃないだろうか。
 いきなり来たらびっくりするよね。もしかして怒られる……?でも、絶対嫌な顔はされるよね。

 もちろん前もって電話でアポを取ろうと何度も思った。
 けど──。

(なんて言えばいいの?)

「会って話しませんか?」
「お話したいことがあるので、会えませんか?」
「直接、お話したいんです。顔を見て」

 ああ、どれも違う。不自然極まりない。

 そもそも、業務外のことなのに、電話でアポを取るなんて不可能じゃないのか。

 いやいや、直接訪ねるほうがおかしいって。

 でもでも、何て言えば……。

 頭の中でぐるぐると思考が渦を巻き、朱里はエレベーター前を不審者のように行ったり来たりした。

 その時、背後から聞こえた低くて懐かしい声が、すべての思考を一瞬で吹き飛ばした。

「……藤井?」

 驚いて振り返った朱里の視線の先に立っていたのは、コートの襟を立て、ビジネスバッグを手にした──神崎朔也だった。

 足を止め、僅かに瞳を見開いている。

「え……あ……その……」

 言葉が出ない。
 まるで、時間が止まったみたいに鼓動だけが先走った。

 朔也も一瞬、何かを飲み込むように視線を落とし、それからごく自然に言葉を繋いだ。

「どうした? こんなところで」

 その問いかけに、朱里は胸の奥に溜め込んでいた想いが、ぐらりと揺れるのを感じた。

 きっとこの瞬間を、ずっと待っていた。
 約束を守れなかったあの日から、今日までずっと──。

「……話したいことが、あるの」

 やっとの思いで、朱里はそう告げた。
 声は小さく震えていたけれど、目はまっすぐ彼を見つめた。

 朔也はその瞳を見つめ返し、静かに頷く。

「分かった。じゃあ、中で聞く」

 エレベーターが1階まで降りて、2人で乗り込んだ。
 操作盤の5階を押す朔也の隣に並ぶ朱里。
 他にエレベーター内は誰も乗ってなくて、2人きりの空間がやけに重苦しい。

 ようやくエレベーターのドアが開くと、直ぐ目の前に『佐原法律事務所』はあった。

「どうぞ」

 入り口のドアを開けて、彼が中に通してくれる。
 こんな仕草ひとつにも胸は高鳴った。

「いらっしゃいませ」

 入って直ぐ受付の美人スタッフに、立ち上がってお辞儀をされる。

「こちらです」

 朔也が来客室の内開きのドアを開けて立ち、「どうぞ」とソファを指し示す。

「……ありがとう」

 続いてコートを脱いだ朔也は、空調を確認して戻って来る。

 ソファに座った朱里は、先程から無駄のない彼のスマートな動きに、大人の男性を嫌でも意識してしまった。

(いつの間にか、こんな所作が似合うようになったんだね)


 来客室の窓の外には、すでに夜の帳が降りていた。
 重厚な木の机とレザー張りのソファが、彼の立場を静かに物語っている。

「すごいね、神崎くん……弁護士になったんだね。驚いちゃった」

 緊張を誤魔化すように笑いながら喋ると、ついはしゃいだ声になってしまう。

「失礼します」

 先程の美人スタッフが温かいお茶を用意してくれて、朱里はますます恐縮した。

「すみません」

「……それで? 話って?」

 彼女が退出した後、朔也は冷静な顔で話を促す。

 業務外のことだと知っていて、来た。
 それでも、どうしても伝えたかったことがある。

「ごめんなさい……中学のとき、約束したのに……あの日、行けなかったこと……謝りたくて」

 視線を落としながら、朱里は指先をぎゅっと握り締めた。

「塾をさぼってたのが親にバレて、スマホを取り上げられて、家からも出してもらえなくて……。
 言い訳にしか聞こえないけど……ずっと、謝れなかったから。ずっと、ごめんねって……言いたかった」

 息を吸い込み、ようやく目を上げる。
 朔也はじっと朱里を見ていた。
 一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を元に戻し、静かに口を開く。

「……別に。そんなこと、今さら気にしてない」

 それは、あまりにも彼らしい言葉だった。
 どこか冷たくて、感情を表に出さない。
 でも、それは昔からの彼の優しさでもあると朱里は知っていた。

 それでも堪え切れず、胸がじわりと熱くなる。

「……すみません。それだけ、伝えたくて」

 声が、思ったより震えていた。
 目元に浮かびかけた涙をなんとか堪え、立ち上がる。

「帰ります」

 そう言って、朱里はドアに向かった。
 重たい空気を引きずりながら、扉に手をかけたその時──

「藤井さん」

 背後から今度はよそ行きの声で呼び止められた。
 振り返ると、朔也は立ち上がって静かに言う。

 「もう遅いから……送る」
 「えっ、いえ、大丈夫です。電車もあるし……」

 反射的に遠慮する朱里。
 けれど、彼は何も言わず無言で自分のコートを手に取った。

***

 ビルの灯りがきらきらと輝き、車のテールランプが連なる帰宅ラッシュの時間帯。
 朱里は、朔也の隣を歩いていた。

 彼は何も言わず、朱里の半歩先を歩く。
 無理に揃えるでもなく、でも歩幅は自然と朱里に合わせてくれているのが分かった。

 そういうところは、あの頃と何ひとつ変わっていない──。

 やがて、駅へと続く入り口が見えてきた。
 ビルの谷間にぽっかりと開いた階段。
 駅前の賑わいと、ホームに滑り込む電車の音。

 その手前で朱里は足を止めた。

「……ここで大丈夫です」

 立ち止まった朱里に朔也も立ち止まる。
 ほんのわずか、振り返るその横顔に街灯の明かりが差した。

「送ってくれて……ありがとうございました」
「……礼なんかいらない。おまえがちゃんと家に帰れないと、困るだろ」

 瞬間、朱里は思わず目を見張った。

 『おまえ』
 中学の頃はそう呼ばれるのが嫌で、何度も訂正して諦めていたけれど、何故か今、彼の口から聞いたその言葉にきゅんと胸が鳴った。

 ああ、神崎くんだ。
 あの頃の神崎くんだ──。

 不器用で、ぶっきらぼうで、だけど心の芯にはちゃんと優しさがある。


「……ほんとはあの時──」
「え?」

 思わず聞き返した朱里に、彼はすぐ言葉を切る。

「……いや。なんでもない」

 そう言って、朔也はポケットに手を突っ込み、くるりと背を向けた。

 その背中を見送る朱里。
 胸の奥で、何かが淡くきらめいた気がした。


 駅の階段を降りながら、朱里はスマホを握り締める。

 ──おまえがちゃんと家に帰れないと、困るだろ

 その一言が、なぜかずっと離れなかった。
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