エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
ハプニング
朱里は自分のデスクに戻ったばかりだった。
午前中に山のように届いた郵便物を処理し終え、ようやく温めのコーヒーに口をつけたところ、
「藤井さん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、総務課の課長だ。
「はい」
軽く返事をしながら、朱里は内心、何かやらかしたかなと身構える。
最近、ちょっと浮かれていたのは事実だ。
理由はただ一つ──
10年ぶりに再会した彼との、仕事のメールだ。
ついつい、ニヤニヤしたり、驚いたりが周囲にバレていると思う。
けれど、どうやら違うらしい。
「これ、編集部から回ってきたんだが……」
課長から差し出された書類を受け取った瞬間、朱里の表情は一変した。
「──新人作家の盗作疑惑、ですか?」
「うん。SNSでちょっと火がついてるみたいでね。いったん社内でも事実確認と対応を協議することになった」
編集部からの依頼メールが印刷されたその書類には、『社内会議前に、顧問弁護士の見解を至急準備してほしい』と記されていた。
(確か、先日北村が同じようなこと言ってたな)
書類には、新人作家『綾野つかさ』と記載されている。同期の北村の担当作家だ。
朱里はついこの前休憩ルームで会った、疲労感漂う北村を思い出す。
(おおごとになっちゃったのね……)
弁護士からの見解なんて、法的処置を検討していると同義語だ。
「会議は明日の午後なんだ。急だが、できればそれまでに、簡単でいいから返答をもらえると助かる」
朱里は小さく頷きながら言った。
「──彼なら、大丈夫だと思います」
自分のデスクに戻るなり、朱里は直ぐにメールを作成する。手早く要点をまとめたメールを打ち、送信ボタンを押した。
【件名:【至急のご相談】作家の盗作疑惑に関する対応の件
佐原法律事務所
神崎先生
いつもお世話になっております。
明月出版総務課の藤井です。
お忙しいところ大変恐縮ですが、至急ご相談したい件がございましてご連絡致しました。
現在、弊社所属の作家・綾野つかさ氏の最新刊について、第三者より盗作の指摘がSNS上でなされており、明日緊急で社内会議を予定しております。
つきましては、法的観点からの見解をいただきたく、ご多忙のところ大変申し訳ございませんが、明日の午前中までにお返事頂けると幸いです。
お手数ですが、詳細は添付ファイルをご確認下さい。
よろしくお願いいたします。
明月出版
総務課 藤井朱里】
そして、その日のうちに、朔也からの返信が届いていた。
【件名:RE:【至急のご相談】作家の盗作疑惑に関する対応の件
明月出版 総務課
藤井様
いつもお世話になっております。神崎です。
ご依頼いただきました件、内容を確認いたしました。
本件は作家個人のみならず、御社の出版倫理・信頼性に関わる事案と判断されます。
つきましては、法的見解を明日午前中までに書面にて提出いたします。
なお、仮に外部への説明責任が求められた際の広報的観点も含め、事前準備を推奨いたします。
記者対応、作家本人への連絡方針など、必要に応じて別途アドバイスいたしますのでご相談ください。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
佐原法律事務所 神崎朔也】
(良かった!会議までに間に合いそう。さすが、神崎くん)
彼の返信メールからは、その後その先のことも考えてくれていて、朱里は頼もしさを感じていた。
***
午後二時、会議室にて。
社内でも中規模以上のトラブル案件にしか使われない、窓のない打ち合わせ室に、関係各部署の社員たちが静かに集まっていた。空調の微かな音がやけに耳につくほど、張りつめた空気が漂っている。
朱里は総務課から預かったファイルを抱え、無言のまま指定された席に着いた。
編集部からは北村を含めた三名、総務課からは朱里と課長の二名。他、経営管理部など上層部数名。
テーブルの上には法務顧問・神崎朔也の名が印字された見解書が、出席者の手元に配布されている。
「それでは、始めましょうか」
経営管理部の部長が低く静かな声を落とす。その一言で、室内にさらに緊張が走った。
普段は温厚で冗談も多い北村ですら、開いた資料に目を落としたまま眉を寄せている。
「今回の件について、顧問弁護士・神崎先生からの見解をお伝えします」
朱里は自分の声が緊張でわずかに震えているのを自覚しながら、ファイルを開いた。
「現時点でSNS上に拡散されている指摘内容は、構成・人物設定・ストーリー展開の一部において“著しい類似性”が確認され得るものであり、一定の誤解を招く余地があります。
特に、商業出版物である点を踏まえると御社及び著者双方にとって社会的信用に影響を及ぼすリスクがあると認められます。
これを受け、以下の点を検討すべきと考えます。
1. 速やかな社内対応方針の決定(公的な見解を出すか否か)
2. 御社または著者に対する名誉毀損・営業妨害に該当する投稿について、法的措置を視野に入れた記録保存────」
読み上げる間、部屋の空気はさらに重く沈んでいった。
「……やはり、簡単に“似てました”じゃ済まないレベルだな」
誰かが呟くように言うと、別の上席が続ける。
「顧問がここまで踏み込んで見解を出している以上、こちらも何らかの対応を表明せざるを得ないでしょう」
沈黙のなかで、北村が顔を上げた。
「綾野先生本人の反応は?」
「本人はまったく心当たりがないと。ただ、ネット上の偶然的な影響は……完全には否定できないとも話しています」
北村の声は編集者としての責任と、作家への信頼との間で揺れていた。
その日の会議で、最終的な方針が決定されることはなかった。
だが一つだけ明らかになったことがある。
──このまま“沈黙”を貫くことは、会社としても難しい、という現実だった。
席を立つ時、朱里は思わず手元の用紙に記された神崎朔也の名前を見つめた。
会議室を出ると、廊下の空気がわずかに軽く感じられる。
朱里が資料を抱えて歩いていると、同期の北村が隣に並んだ。
「お疲れ」
「あ、うん。お疲れさま。大丈夫?」
「ちょっとな。さすがに胃が痛い」
苦笑いして見せた北村の顔は、確かに会議中よりも少しやつれたように見えた。
「作家の綾野先生は?大丈夫なの?」
「まあなー。流石に落ち込んでる。誰かに恨み買うようなことはしてないはずなのに、ってさ」
「そうなんだ……」
朱里は少しだけ眉をひそめる。
「……弁護士の先生も作家の対応についてアドバイスしてくれるって。何かあったら遠慮なく言ってね」
「お、頼もしい。じゃあそのうち、泣きつくかも」
「頼もしいのは神崎先生だよ」
「確かにな」
北村が冗談めかして笑う。
朱里もつられて微笑んだ。
「でも、ちゃんとご飯食べてる?睡眠とか」
「……ごはんは、コンビニ。寝てるかは、謎」
「ダメじゃん、ちゃんと寝ないと。倒れたら終わりなんだから」
そう言う朱里の声には、自然と心配の色が滲んでいた。
「はいはい、気をつけます。じゃ、そろそろ戻るわ。こっちもまだバタバタで」
「うん、おつかれ。無理しないでね」
「そっちもな。……ありがと」
北村は軽く手を振って、編集部の扉へ消えていく。
朱里はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
【件名:本日の会議、無事終了しました
佐原法律事務所
神崎先生
お世話になっております。
本日、作家の綾野つかさ先生の件について、社内で関係部署による会議が開かれました。
ご提供いただいた見解資料、おかげさまで非常に助かりました。
今回は現場の混乱も大きく、関係者の心理的な負担も少なくない中、明確な論点を整理していただけたことで、議論も冷静に進めることができました。
資料内でご指摘いただいた通り、社としても対応方針の決定に向けて動く方針です。
(記録保存の件も含め、実務的な対応については社内でも改めて協議します)
あらためて、迅速なご対応、ありがとうございました。
また、何かありましたら重ねてご連絡させて頂くと思います。どうぞよろしくお願いします。
藤井朱里
明月出版 総務課】
業務の終了間際、朔也にメールしてから、朱里はうーんと伸びをする。
こんな咄嗟のトラブルの対応も、朔也が画面の向こうにいてくれるだけで朱里の気持ちは大分違った。
会議中もずっと、側にいてくれているように感じていた。
午前中に山のように届いた郵便物を処理し終え、ようやく温めのコーヒーに口をつけたところ、
「藤井さん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、総務課の課長だ。
「はい」
軽く返事をしながら、朱里は内心、何かやらかしたかなと身構える。
最近、ちょっと浮かれていたのは事実だ。
理由はただ一つ──
10年ぶりに再会した彼との、仕事のメールだ。
ついつい、ニヤニヤしたり、驚いたりが周囲にバレていると思う。
けれど、どうやら違うらしい。
「これ、編集部から回ってきたんだが……」
課長から差し出された書類を受け取った瞬間、朱里の表情は一変した。
「──新人作家の盗作疑惑、ですか?」
「うん。SNSでちょっと火がついてるみたいでね。いったん社内でも事実確認と対応を協議することになった」
編集部からの依頼メールが印刷されたその書類には、『社内会議前に、顧問弁護士の見解を至急準備してほしい』と記されていた。
(確か、先日北村が同じようなこと言ってたな)
書類には、新人作家『綾野つかさ』と記載されている。同期の北村の担当作家だ。
朱里はついこの前休憩ルームで会った、疲労感漂う北村を思い出す。
(おおごとになっちゃったのね……)
弁護士からの見解なんて、法的処置を検討していると同義語だ。
「会議は明日の午後なんだ。急だが、できればそれまでに、簡単でいいから返答をもらえると助かる」
朱里は小さく頷きながら言った。
「──彼なら、大丈夫だと思います」
自分のデスクに戻るなり、朱里は直ぐにメールを作成する。手早く要点をまとめたメールを打ち、送信ボタンを押した。
【件名:【至急のご相談】作家の盗作疑惑に関する対応の件
佐原法律事務所
神崎先生
いつもお世話になっております。
明月出版総務課の藤井です。
お忙しいところ大変恐縮ですが、至急ご相談したい件がございましてご連絡致しました。
現在、弊社所属の作家・綾野つかさ氏の最新刊について、第三者より盗作の指摘がSNS上でなされており、明日緊急で社内会議を予定しております。
つきましては、法的観点からの見解をいただきたく、ご多忙のところ大変申し訳ございませんが、明日の午前中までにお返事頂けると幸いです。
お手数ですが、詳細は添付ファイルをご確認下さい。
よろしくお願いいたします。
明月出版
総務課 藤井朱里】
そして、その日のうちに、朔也からの返信が届いていた。
【件名:RE:【至急のご相談】作家の盗作疑惑に関する対応の件
明月出版 総務課
藤井様
いつもお世話になっております。神崎です。
ご依頼いただきました件、内容を確認いたしました。
本件は作家個人のみならず、御社の出版倫理・信頼性に関わる事案と判断されます。
つきましては、法的見解を明日午前中までに書面にて提出いたします。
なお、仮に外部への説明責任が求められた際の広報的観点も含め、事前準備を推奨いたします。
記者対応、作家本人への連絡方針など、必要に応じて別途アドバイスいたしますのでご相談ください。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
佐原法律事務所 神崎朔也】
(良かった!会議までに間に合いそう。さすが、神崎くん)
彼の返信メールからは、その後その先のことも考えてくれていて、朱里は頼もしさを感じていた。
***
午後二時、会議室にて。
社内でも中規模以上のトラブル案件にしか使われない、窓のない打ち合わせ室に、関係各部署の社員たちが静かに集まっていた。空調の微かな音がやけに耳につくほど、張りつめた空気が漂っている。
朱里は総務課から預かったファイルを抱え、無言のまま指定された席に着いた。
編集部からは北村を含めた三名、総務課からは朱里と課長の二名。他、経営管理部など上層部数名。
テーブルの上には法務顧問・神崎朔也の名が印字された見解書が、出席者の手元に配布されている。
「それでは、始めましょうか」
経営管理部の部長が低く静かな声を落とす。その一言で、室内にさらに緊張が走った。
普段は温厚で冗談も多い北村ですら、開いた資料に目を落としたまま眉を寄せている。
「今回の件について、顧問弁護士・神崎先生からの見解をお伝えします」
朱里は自分の声が緊張でわずかに震えているのを自覚しながら、ファイルを開いた。
「現時点でSNS上に拡散されている指摘内容は、構成・人物設定・ストーリー展開の一部において“著しい類似性”が確認され得るものであり、一定の誤解を招く余地があります。
特に、商業出版物である点を踏まえると御社及び著者双方にとって社会的信用に影響を及ぼすリスクがあると認められます。
これを受け、以下の点を検討すべきと考えます。
1. 速やかな社内対応方針の決定(公的な見解を出すか否か)
2. 御社または著者に対する名誉毀損・営業妨害に該当する投稿について、法的措置を視野に入れた記録保存────」
読み上げる間、部屋の空気はさらに重く沈んでいった。
「……やはり、簡単に“似てました”じゃ済まないレベルだな」
誰かが呟くように言うと、別の上席が続ける。
「顧問がここまで踏み込んで見解を出している以上、こちらも何らかの対応を表明せざるを得ないでしょう」
沈黙のなかで、北村が顔を上げた。
「綾野先生本人の反応は?」
「本人はまったく心当たりがないと。ただ、ネット上の偶然的な影響は……完全には否定できないとも話しています」
北村の声は編集者としての責任と、作家への信頼との間で揺れていた。
その日の会議で、最終的な方針が決定されることはなかった。
だが一つだけ明らかになったことがある。
──このまま“沈黙”を貫くことは、会社としても難しい、という現実だった。
席を立つ時、朱里は思わず手元の用紙に記された神崎朔也の名前を見つめた。
会議室を出ると、廊下の空気がわずかに軽く感じられる。
朱里が資料を抱えて歩いていると、同期の北村が隣に並んだ。
「お疲れ」
「あ、うん。お疲れさま。大丈夫?」
「ちょっとな。さすがに胃が痛い」
苦笑いして見せた北村の顔は、確かに会議中よりも少しやつれたように見えた。
「作家の綾野先生は?大丈夫なの?」
「まあなー。流石に落ち込んでる。誰かに恨み買うようなことはしてないはずなのに、ってさ」
「そうなんだ……」
朱里は少しだけ眉をひそめる。
「……弁護士の先生も作家の対応についてアドバイスしてくれるって。何かあったら遠慮なく言ってね」
「お、頼もしい。じゃあそのうち、泣きつくかも」
「頼もしいのは神崎先生だよ」
「確かにな」
北村が冗談めかして笑う。
朱里もつられて微笑んだ。
「でも、ちゃんとご飯食べてる?睡眠とか」
「……ごはんは、コンビニ。寝てるかは、謎」
「ダメじゃん、ちゃんと寝ないと。倒れたら終わりなんだから」
そう言う朱里の声には、自然と心配の色が滲んでいた。
「はいはい、気をつけます。じゃ、そろそろ戻るわ。こっちもまだバタバタで」
「うん、おつかれ。無理しないでね」
「そっちもな。……ありがと」
北村は軽く手を振って、編集部の扉へ消えていく。
朱里はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
【件名:本日の会議、無事終了しました
佐原法律事務所
神崎先生
お世話になっております。
本日、作家の綾野つかさ先生の件について、社内で関係部署による会議が開かれました。
ご提供いただいた見解資料、おかげさまで非常に助かりました。
今回は現場の混乱も大きく、関係者の心理的な負担も少なくない中、明確な論点を整理していただけたことで、議論も冷静に進めることができました。
資料内でご指摘いただいた通り、社としても対応方針の決定に向けて動く方針です。
(記録保存の件も含め、実務的な対応については社内でも改めて協議します)
あらためて、迅速なご対応、ありがとうございました。
また、何かありましたら重ねてご連絡させて頂くと思います。どうぞよろしくお願いします。
藤井朱里
明月出版 総務課】
業務の終了間際、朔也にメールしてから、朱里はうーんと伸びをする。
こんな咄嗟のトラブルの対応も、朔也が画面の向こうにいてくれるだけで朱里の気持ちは大分違った。
会議中もずっと、側にいてくれているように感じていた。