エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
雨を避けながらマンションのエントランスまで辿り着いたが、5分ほどの道でもかなり濡れてしまった。
「……あの、タオルだけで大丈夫。玄関で拭いて帰るから」
朔也の部屋に入るなり、朱里は玄関に立ちすくんだ。濡れたコートが重く肩に張りつき、足元からじわじわと冷えてくる。
「部屋、ストーブ入れるけど……そのままじゃ冷えるだろ」
「……ありがとう。じゃあ、少しだけ」
朱里は靴を脱ぎながら、小さく頭を下げた。
「お邪魔します」
朔也はすぐにバスタオルを二枚取り出し、ひとつを彼女に手渡した。
「ごめんね、部屋が濡れちゃうね」
「いいよ、それくらい。乾燥機あるから、乾かしていけよ」
朔也はバスタオルで自分も拭きながら、電気ストーブを付ける。周囲に暖かな光が満ちていった。
「……だ、大丈夫。傘だけ貸してくれれば、あとは自力で帰れるし」
「そんなの、風邪引くだろ」
朱里は返事の代わりにくしゃみをした。
同時に手がかじかんでいることに気づいて、自分の冷えをようやく実感する。
朔也の部屋はワンルームではなく、ちゃんとLDKもある広い部屋だった。
リビングにあるストーブから少し離れた場所に新聞紙を広げて、2人の靴も乾かした。朔也の革靴と、朱里のパンプス。並んでいる二組の靴が、少しだけくすぐったい。
「……これ、男物だけど、新品だから」
朔也が差し出したのは、袋に入ったままのグレーの厚手のトレーナー上下だった。タグも付いている。
「ありがとう。……借りるね」
「……風呂も沸かしてるけど、どうする?」
「いや、それはさすがに……そんなに図々しくなれないし」
「図々しいとかじゃなくて、風邪引かれるほうが困る。拭いても寒いだろ?」
「……そう言われると断りづらいじゃん」
朱里がタオルで髪を抑えながら、少し笑った。
「その間に服、乾燥機かけとくから」
「ありがとう。じゃあ、甘えさせてもらうね」
朱里はそう言って立ち上がった。
バスルームに続く脱衣所に乾燥機があったので、濡れた服を中へ入れる。
バスルームの中は温かい湯気で満ちていて、冷えた体がじんわり温まった。
ボディソープを借りて身体を洗った後、湯船にゆっくりと浸かると、生き返った心地がした。
朱里はこんな、男性の家のお風呂を使わせて貰う経験なんて初めてだ。
例え会社の同僚と同じことがあったとしても、「家来る?」の段階で即断っているだろう。
彼の言葉に甘えようと思ったのは、多分、朔也だったから──。
そこまで思って、急に恥ずかしくなり、バシャッと音を立ててバスタブから上がった。
朱里がリビングに戻ってくると、彼はキッチンにいた。
対面式のキッチンカウンターには、白のマグカップが一つ置かれていて温かい湯気が立っている。
「神崎くん、ごめんね、先に入っちゃって」
朱里が前髪をタオルで押さえながら、少し照れたように笑う。
朔也のトレーナーを着た朱里はサイズが合っていないせいかぶかぶかで、それがかえって守りたくなるような雰囲気を醸していた。
「いや、いい」
朔也は短く言って、視線を逸らした。
カウンターのマグカップを無言で渡す。
「え?……ありがとう」
カップには温かいコーヒーが注がれており、その豊潤な香りが鼻腔を擽る。
朱里はカップをぎこちなく受け取ると、一口飲んだ。
「おいしい」
「……夕食を作ろうと思ったんだけど」
不意に朔也がポツリと呟いた。
「卵と、ベーコン、トマト……あとはパンしかない」
材料を聞くに朝の朝食用に用意していたものだろうか。どこか絶望的な表情の朔也が可笑しくて、朱里はふっと笑みを浮かべた。
「良かったら、わたし、何か作ろうか?」
「これだけでできるのか?」
「うん。トマトって、意外といい出汁になるんだよ。卵もベーコンもあるし、あとは塩こしょうだけ」
「調味料、あんまないけど適当に使って」
「ありがとう。神崎くんはお風呂入ってきて、その間に作っておくから」
「分かった」
***
朔也がお風呂から戻ると、朱里がキッチンで手を動かしていた。
借りたトレーナーの袖を一折りして、湯気の上がる鍋に卵を落としている。
包丁を使う手つきはたどたどしくないが、慣れているというほどでもない。
鍋の中で、ふわっと卵が広がって、トマトとベーコンの赤にやさしい黄色が溶ける。
ごま油をひとまわしして火を止めた瞬間、ほのかに中華の香りが漂った。
「……どうしたの?」
朱里が彼の視線に気づき、少し首をかしげる。
朔也は咄嗟に目をそらした。
「……料理、するんだな」
朔也はタオルで髪を拭きながらぽつりと呟く。
朱里は少し笑って、「たまにね」と返した。
「朝はパンだから、スープだけ作るときもあるよ。インスタントじゃ飽きちゃうし」
「へえ」
「期待してた? もっと本格的なのだと思った?」
「いや、逆。……こういうの、いいなって」
最後の言葉は、ほんの少し間を置いて、低く零れた。
「……こういうの?」
「家にあるもんで、うまい飯が出てくるとか」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「私が食べたかっただけだよ」
彼女の笑顔を見て、朔也は思う。
このまま、帰らずにいてくれたら──。
そう思ってしまうくらいには、居心地がよかった。
「お皿、どれ使っていい?」
「あー、スープ用のお椀と、あとはご飯用のやつしかない」
「ふふっ、ほんとに一人暮らしなんだね」
「見りゃ分かるだろ」
ぶっきらぼうな返事の裏に、わずかに動揺が滲んだのを朱里は感じた。
食卓にスープと、パン皿を並べる。
即席のトマトとベーコンのかきたまスープに、冷蔵庫にあった食パンを軽くトーストしただけのシンプルな夜ごはん。
具材のやさしい色味が心を和ませる。
「いただきます」
向かいに座って2人同時に手を合わせた。
最初の一口を啜って、朱里はほっと息をつく。
冷えた体に、ちょうどいい温度だ。
食欲をそそるごま油の香りと、トマトの酸味に卵のやさしさ、ベーコンの旨味が加わり、材料は少ないのに、どこか芯のある味がした。
「……うまっ」
ぽつりと、朔也がつぶやく。
声は相変わらず低いけれど、その表情が少しだけ柔らかく見えた。
「よかった」
「……なんであの材料で、こんなに美味いんだ」
言いながら朔也は、何気ない動作でスープを口に運び続ける。
「……普段、ちゃんと食べてる?」
朱里が聞くと、朔也の手が一瞬止まる。
「まあ、ほとんど帰って寝るだけだし」
「……彼女、とかは?」
「いない」
「そっか」
内心ほっとしたものの、それを表に出すのはなんとなく憚られた。
洗面所にも歯ブラシは一つしかなくて、マグカップも白いの一つだけ。スプーンも一つしかないから、朱里が使ってるのはコーヒー用のスプーンだ。女っ気が全然ないのは本当のようだった。
「藤井は?」
「え?……あ、うん。いないよ、わたしも」
応える声はかすかで、それでも朔也の視線がこちらを向いているのは分かった。
だけど、彼は何も言わない。スープの器を、黙って両手で包んでいた。
(なんか、お互い彼氏彼女の有無を聞くのって……)
自分から言い出したこととはいえ、恥ずかしいものがある。
朱里はトーストに手を伸ばしながら、ぎこちない空気を変えるために話題を探した。
「覚えてる? 中学のとき」
「…何を」
「焼きそばパン、好きだったでしょ?購買の」
「ああ」
「ふふっ、図書室で食べてたよね」
「あれは、あいつが無理やり連れてくから」
「そうそう、佐久間くん。いっつも構ってたよね、めげずに」
「……おまえもな」
「あはは、そうだね」
ふたりとも、少し笑った。
食後、ふたりで静かに食器を片付けた。
朔也が無言のまま台所に入って来て、蛇口をひねり、水を出す。洗剤を取って、迷いなくスポンジを動かし始めた。昔から器用なタイプじゃなかったけれど、こうして黙々と何でも自分でこなすところは、あの頃と何も変わらない。
朱里は、横に立って拭き上げ用のタオルを持った。
並んで食器を洗ってるのがなんだか不思議で、少しだけ照れくさかった。
といっても食器は2つ。水切りカゴもほとんど使われていない。
スポンジも新品のようで、暮らしの気配がどこか薄いのに、妙に清潔感だけはある。そのアンバランスさが彼らしいと思えた。
「神崎くん、てさ」
朱里がふと口を開くと、朔也はちらりと視線だけこちらに寄こす。
「話しかけるとちゃんと答えてくれるのに、それまで”話しかけるなオーラ”がすごいよね」
「それは中学の時だろ」
「でも、最初にうちの会社に来た時、ほら、挨拶の時。あのときの神崎くん、わたしのことなんて全然覚えてませんって顔だった」
「あれは……」
「ちょっと、ショックだったかな」
朱里が笑い混じりに言うと、朔也の手が一瞬止まる。
「あれは、まさかおまえに会うとは思わなくて、動揺隠すのに必死だった」
「動揺してたの?」
「そりゃ、するだろ」
朱里はタオルでお皿を拭きながら、朔也を横目で見た。
表情は変わらないけど、耳のあたりがほんのり赤く見えた気がする。
「わたし、嫌われてると思ってた」
「なんで」
「だって、約束破ったし」
「……それは、気にしてないって言っただろ」
「でも、わたしはずっと気にしてた」
洗い終わった朔也は手を止めて、朱里の顔を見つめた。
「だからわざわざ事務所まで来たのか?」
「う、うん」
「真面目か」
ふっと笑って一度俯いた後、今後はまっすぐに朱里の目を見て言った。
「じゃあ、今度リベンジしよう……明日は無理そうだけど」
「うん……うん。そうする」
10年前とは違う。でも、あの頃よりも少しだけ大人になった自分たちが、再び結ぶ約束。
それは、朱里にとって救いのような、ぬくもりのような──優しい希望だった。
「……あの、タオルだけで大丈夫。玄関で拭いて帰るから」
朔也の部屋に入るなり、朱里は玄関に立ちすくんだ。濡れたコートが重く肩に張りつき、足元からじわじわと冷えてくる。
「部屋、ストーブ入れるけど……そのままじゃ冷えるだろ」
「……ありがとう。じゃあ、少しだけ」
朱里は靴を脱ぎながら、小さく頭を下げた。
「お邪魔します」
朔也はすぐにバスタオルを二枚取り出し、ひとつを彼女に手渡した。
「ごめんね、部屋が濡れちゃうね」
「いいよ、それくらい。乾燥機あるから、乾かしていけよ」
朔也はバスタオルで自分も拭きながら、電気ストーブを付ける。周囲に暖かな光が満ちていった。
「……だ、大丈夫。傘だけ貸してくれれば、あとは自力で帰れるし」
「そんなの、風邪引くだろ」
朱里は返事の代わりにくしゃみをした。
同時に手がかじかんでいることに気づいて、自分の冷えをようやく実感する。
朔也の部屋はワンルームではなく、ちゃんとLDKもある広い部屋だった。
リビングにあるストーブから少し離れた場所に新聞紙を広げて、2人の靴も乾かした。朔也の革靴と、朱里のパンプス。並んでいる二組の靴が、少しだけくすぐったい。
「……これ、男物だけど、新品だから」
朔也が差し出したのは、袋に入ったままのグレーの厚手のトレーナー上下だった。タグも付いている。
「ありがとう。……借りるね」
「……風呂も沸かしてるけど、どうする?」
「いや、それはさすがに……そんなに図々しくなれないし」
「図々しいとかじゃなくて、風邪引かれるほうが困る。拭いても寒いだろ?」
「……そう言われると断りづらいじゃん」
朱里がタオルで髪を抑えながら、少し笑った。
「その間に服、乾燥機かけとくから」
「ありがとう。じゃあ、甘えさせてもらうね」
朱里はそう言って立ち上がった。
バスルームに続く脱衣所に乾燥機があったので、濡れた服を中へ入れる。
バスルームの中は温かい湯気で満ちていて、冷えた体がじんわり温まった。
ボディソープを借りて身体を洗った後、湯船にゆっくりと浸かると、生き返った心地がした。
朱里はこんな、男性の家のお風呂を使わせて貰う経験なんて初めてだ。
例え会社の同僚と同じことがあったとしても、「家来る?」の段階で即断っているだろう。
彼の言葉に甘えようと思ったのは、多分、朔也だったから──。
そこまで思って、急に恥ずかしくなり、バシャッと音を立ててバスタブから上がった。
朱里がリビングに戻ってくると、彼はキッチンにいた。
対面式のキッチンカウンターには、白のマグカップが一つ置かれていて温かい湯気が立っている。
「神崎くん、ごめんね、先に入っちゃって」
朱里が前髪をタオルで押さえながら、少し照れたように笑う。
朔也のトレーナーを着た朱里はサイズが合っていないせいかぶかぶかで、それがかえって守りたくなるような雰囲気を醸していた。
「いや、いい」
朔也は短く言って、視線を逸らした。
カウンターのマグカップを無言で渡す。
「え?……ありがとう」
カップには温かいコーヒーが注がれており、その豊潤な香りが鼻腔を擽る。
朱里はカップをぎこちなく受け取ると、一口飲んだ。
「おいしい」
「……夕食を作ろうと思ったんだけど」
不意に朔也がポツリと呟いた。
「卵と、ベーコン、トマト……あとはパンしかない」
材料を聞くに朝の朝食用に用意していたものだろうか。どこか絶望的な表情の朔也が可笑しくて、朱里はふっと笑みを浮かべた。
「良かったら、わたし、何か作ろうか?」
「これだけでできるのか?」
「うん。トマトって、意外といい出汁になるんだよ。卵もベーコンもあるし、あとは塩こしょうだけ」
「調味料、あんまないけど適当に使って」
「ありがとう。神崎くんはお風呂入ってきて、その間に作っておくから」
「分かった」
***
朔也がお風呂から戻ると、朱里がキッチンで手を動かしていた。
借りたトレーナーの袖を一折りして、湯気の上がる鍋に卵を落としている。
包丁を使う手つきはたどたどしくないが、慣れているというほどでもない。
鍋の中で、ふわっと卵が広がって、トマトとベーコンの赤にやさしい黄色が溶ける。
ごま油をひとまわしして火を止めた瞬間、ほのかに中華の香りが漂った。
「……どうしたの?」
朱里が彼の視線に気づき、少し首をかしげる。
朔也は咄嗟に目をそらした。
「……料理、するんだな」
朔也はタオルで髪を拭きながらぽつりと呟く。
朱里は少し笑って、「たまにね」と返した。
「朝はパンだから、スープだけ作るときもあるよ。インスタントじゃ飽きちゃうし」
「へえ」
「期待してた? もっと本格的なのだと思った?」
「いや、逆。……こういうの、いいなって」
最後の言葉は、ほんの少し間を置いて、低く零れた。
「……こういうの?」
「家にあるもんで、うまい飯が出てくるとか」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「私が食べたかっただけだよ」
彼女の笑顔を見て、朔也は思う。
このまま、帰らずにいてくれたら──。
そう思ってしまうくらいには、居心地がよかった。
「お皿、どれ使っていい?」
「あー、スープ用のお椀と、あとはご飯用のやつしかない」
「ふふっ、ほんとに一人暮らしなんだね」
「見りゃ分かるだろ」
ぶっきらぼうな返事の裏に、わずかに動揺が滲んだのを朱里は感じた。
食卓にスープと、パン皿を並べる。
即席のトマトとベーコンのかきたまスープに、冷蔵庫にあった食パンを軽くトーストしただけのシンプルな夜ごはん。
具材のやさしい色味が心を和ませる。
「いただきます」
向かいに座って2人同時に手を合わせた。
最初の一口を啜って、朱里はほっと息をつく。
冷えた体に、ちょうどいい温度だ。
食欲をそそるごま油の香りと、トマトの酸味に卵のやさしさ、ベーコンの旨味が加わり、材料は少ないのに、どこか芯のある味がした。
「……うまっ」
ぽつりと、朔也がつぶやく。
声は相変わらず低いけれど、その表情が少しだけ柔らかく見えた。
「よかった」
「……なんであの材料で、こんなに美味いんだ」
言いながら朔也は、何気ない動作でスープを口に運び続ける。
「……普段、ちゃんと食べてる?」
朱里が聞くと、朔也の手が一瞬止まる。
「まあ、ほとんど帰って寝るだけだし」
「……彼女、とかは?」
「いない」
「そっか」
内心ほっとしたものの、それを表に出すのはなんとなく憚られた。
洗面所にも歯ブラシは一つしかなくて、マグカップも白いの一つだけ。スプーンも一つしかないから、朱里が使ってるのはコーヒー用のスプーンだ。女っ気が全然ないのは本当のようだった。
「藤井は?」
「え?……あ、うん。いないよ、わたしも」
応える声はかすかで、それでも朔也の視線がこちらを向いているのは分かった。
だけど、彼は何も言わない。スープの器を、黙って両手で包んでいた。
(なんか、お互い彼氏彼女の有無を聞くのって……)
自分から言い出したこととはいえ、恥ずかしいものがある。
朱里はトーストに手を伸ばしながら、ぎこちない空気を変えるために話題を探した。
「覚えてる? 中学のとき」
「…何を」
「焼きそばパン、好きだったでしょ?購買の」
「ああ」
「ふふっ、図書室で食べてたよね」
「あれは、あいつが無理やり連れてくから」
「そうそう、佐久間くん。いっつも構ってたよね、めげずに」
「……おまえもな」
「あはは、そうだね」
ふたりとも、少し笑った。
食後、ふたりで静かに食器を片付けた。
朔也が無言のまま台所に入って来て、蛇口をひねり、水を出す。洗剤を取って、迷いなくスポンジを動かし始めた。昔から器用なタイプじゃなかったけれど、こうして黙々と何でも自分でこなすところは、あの頃と何も変わらない。
朱里は、横に立って拭き上げ用のタオルを持った。
並んで食器を洗ってるのがなんだか不思議で、少しだけ照れくさかった。
といっても食器は2つ。水切りカゴもほとんど使われていない。
スポンジも新品のようで、暮らしの気配がどこか薄いのに、妙に清潔感だけはある。そのアンバランスさが彼らしいと思えた。
「神崎くん、てさ」
朱里がふと口を開くと、朔也はちらりと視線だけこちらに寄こす。
「話しかけるとちゃんと答えてくれるのに、それまで”話しかけるなオーラ”がすごいよね」
「それは中学の時だろ」
「でも、最初にうちの会社に来た時、ほら、挨拶の時。あのときの神崎くん、わたしのことなんて全然覚えてませんって顔だった」
「あれは……」
「ちょっと、ショックだったかな」
朱里が笑い混じりに言うと、朔也の手が一瞬止まる。
「あれは、まさかおまえに会うとは思わなくて、動揺隠すのに必死だった」
「動揺してたの?」
「そりゃ、するだろ」
朱里はタオルでお皿を拭きながら、朔也を横目で見た。
表情は変わらないけど、耳のあたりがほんのり赤く見えた気がする。
「わたし、嫌われてると思ってた」
「なんで」
「だって、約束破ったし」
「……それは、気にしてないって言っただろ」
「でも、わたしはずっと気にしてた」
洗い終わった朔也は手を止めて、朱里の顔を見つめた。
「だからわざわざ事務所まで来たのか?」
「う、うん」
「真面目か」
ふっと笑って一度俯いた後、今後はまっすぐに朱里の目を見て言った。
「じゃあ、今度リベンジしよう……明日は無理そうだけど」
「うん……うん。そうする」
10年前とは違う。でも、あの頃よりも少しだけ大人になった自分たちが、再び結ぶ約束。
それは、朱里にとって救いのような、ぬくもりのような──優しい希望だった。