エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
「連絡先、交換する?」

 朱里はスマホを手にして、勇気を出して聞いてみると、朔也は直ぐに応じてくれた。

「ああ」
「良かった。これで連絡取れるね」
「……10年越し、だな」

 彼も同じ気持ちだったみたいで、2人で微笑み合った。

 けれど、ふと見たスマホの時計は、もうすぐ22時になるところだった。
 明日は休日。だけど、流石にもう遅い時間だ。
 帰らなくてはと頭では思うのに、まだ離れがたい気持ちが邪魔をする。

「そろそろ……帰らなきゃ」

 朱里はソファに座ると、俯いて小さく呟いた。

「まだ、雨降ってるだろ」

 朔也がカーテンを少し開ける。窓の外は暗く、街灯に照らされた雨粒が絶え間く落ちていく。

 彼のその言い方が「まだここにいろよ」と言われている気がして、朱里は膝をぎゅっと抱えた。

(泊まっても、いいってこと?)

 そう聞いたら、彼は、何て言うだろう。
 困る?呆れる?それとも、いいよって言ってくれる?

 そんな図々しいこと、言えないけど。
 すごく、すごーく帰り難いけれど、それ以上に軽い女だとは思われたくなかった。

「……着替えてくるね」

 朱里は立ち上がって脱衣所に向かう。

 乾燥は既に終わっていて、中からふんわり暖かくなった服を取り出した。
 コートも靴も、すっかり乾いている。
 ふだんの自分に戻る準備をすべて整えながら、朱里はどこか、まだ心だけが置き去りになっている気がしていた。

「これ、ありがとう」

 借りていたトレーナーの上下を丁寧に畳んで彼に渡す。

「……ん」

 短い返事。
 その声の低さに、僅かに何かが滲んでいるような気がした。

 朔也は顔を上げて、何かを言いかけた。
 でも、言葉にならなかった。

「…………」
「…………」

 ほんの数秒の沈黙。だけど、それはものすごく長く感じた。

 先に言葉を発したのは朔也だった。

「……タクシー、呼ぶ」
「でもまだ、電車あるし」

 朱里が慌てて言いかけたが、朔也はスマホの画面から目を離さずに首を振った。

「……せっかく乾いたのに、また寒い中帰すわけにいかないし」

 その言い方があまりに自然で、照れも押しつけもないから、逆に胸の奥にひっかかる。

 やがて、マンション前の路肩に車のライトが近づいてきた。

「……来た。乗って」
「ありがとう」

 朱里は微笑んで、それ以上何も言わず、バッグを持って靴を履く。

「……じゃあ。また、連絡するね」
「……ああ」

 ドアを開けたまま、朔也はまっすぐ朱里を見た。


 エントランスまで降りると、マンションの前に停まっているタクシーに乗り込んだ。
 行き先は先程朔也が呼んだタクシーのアプリに入力してある。
 運転手からいくつか確認されたあと、ドアが静かに閉まり、車は直ぐに走り出した。

(また、会えるよね……)

 朱里は一人、後部座席に座りながら、もう寂しくなっていた。

 たった数時間だったはずなのに、どうして、こんなに、会いたくなるんだろう。

 そっと瞼を閉じると、視界の暗闇に彼の横顔が浮かぶ。

 口下手で、不器用で、でも──
 あんなふうに、無言で優しさをくれる人なんて、きっと他にいない。

 夜の静けさがやけに身に染みた。



 自分の部屋に帰って、明かりをつけた瞬間、寂しさにふっと胸が締めつけられる。

 確かに、さっきまであの部屋にいたのに。
 温かい食事があって、並んで食器を洗って、
 全部が、夢みたいだった。

 だけど、自分は今ひとりで、現実の部屋に帰ってきている。

 彼の部屋を出るとき、少しだけためらった。
 あのまま、「帰りたくない」って言ってしまえたら、どうなってたんだろう。

 でも──言えなかったのは、たぶん私だけじゃない。

 彼もきっと、言えなかったんだと思う。
 無言の沈黙が、なによりの証拠。

 でも、あの人は言わなかった。
 最後まで、紳士だった。

 すごく寂しいけど、それが彼の優しさなんだ。
 だから私も、ちゃんと帰ってきた。

 ──玄関に置いたままのバッグを開けて、スマホを手に取る。
 指先が少し震える。

《今日は本当にありがとう。おかげさまで無事に帰れました。タクシー代、今度会った時に返すね》
《帰るとき、ちょっとだけ泣きそうだった》
《ごめん、変なこと言って。おやすみなさい》

 しばらくして届いた返信を見たとき、胸がじんと熱くなった。

《無事に帰れてよかった。おやすみ》

 ただそれだけなのに、ものすごく安心した。
 そっとスマホを抱きしめる。

 会いたい、って思った。
 寂しい、って思った。

 でも──それ以上に、ちゃんと大切にされてるって感じられた。

 すぐに会えなくてもいい。
 焦らなくていい。

 少しずつ、これから。
 彼と、ちゃんと向き合っていけたら。

 ──頬を枕に埋めて、小さく息を吐く。

「……おやすみ、神崎くん」

 静かな部屋に、小さく声が落ちていった。
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