エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
朔也Side
扉を閉めると、部屋に静けさが戻る。
その静けさがどこか耳に痛くて、朔也はしばらく動けなかった。
2人でキッチンに立って、並んで洗い物をした時間が、夢のように遠い。
今はただ、静かな空間がやけに虚しく感じられた。
ソファに腰を落とし、背もたれにもたれて天井を仰ぐ。
『泊まっていけよ』
その一言が喉まで出かかっていたのに。
最後まで言えなかった。
(……あれでよかったんだ)
理性はそう告げている。
けれど、その理屈とは裏腹に、胸の奥はぽっかりと空いたままだ。
──10年前、あの冬の朝。
彼女が来なかった場所で1人ずっと待っていた。
そのときに感じた空虚感と、今の感覚はどこか似ている。
(気にしてないなんて、嘘だ)
本当はあの日、彼女に気持ちを伝えるつもりだった。
朔也が最初に朱里と出会ったのは、中学2年の春頃だった。
父親のDVが原因で、小学校の頃に両親が離婚して以来、周囲の憐れみや同情に嫌悪し、人と関わるのが面倒で、どこにも居場所を作ろうとしなかった。
そんなある日、図書室で棚の上段から本を引き抜こうとした拍子に、文庫本を何冊も落としてしまった。
「──あ」
派手な音が響き、チッと舌打ちしたその時。
「……大丈夫?」
背後で柔らかい声がした。
朔也が振り向くと、一人の女の子がしゃがんで本を拾っている。
見たことがない。隣のクラスか、それとも下の学年だろうか。
肩までの髪を2つに結んだ、幼い顔立ちの彼女は落ちた本を一冊、二冊と手際よく拾って棚に戻してくれた。
「ここの棚、ちゃんと整理してなかったんでしょ。ごめんね」
そう言って、笑った。
頬がふわりとほころぶような、暖かな笑顔。
その瞬間、胸のどこかが静かに震えた。
それが、朱里との最初の出会いだった。
その時は名前も知らなかった。
ただ、その笑顔だけが胸に焼きついて離れなかった。
その後、彼女は図書委員で、本の整理も仕事だからあの時ごめんねと謝ったのだということが分かった。
それから図書室で彼女を何度か見かけるたびに、自然と目で追ってしまった。
本を貸し出すときのわずかな遣り取り。
貸し出しカードを真剣に整理している横顔。
誰にでも変わらず優しいのに、なぜか自分に向けたあの笑顔だけが、特別に思えた。
中学3年になって初めて同じクラスになった時、名前を知った。
「私、藤井朱里。よろしくね」
──あの時の子だと直ぐに分かった。
自分に向ける屈託のない笑顔がまともに見れなくて、「……ああ」とだけ言うのが精一杯だった。
それから、放課後、たまたま河原で会ってから少しずつ言葉を交わすようになった。
朱里は一見大人しそうにみえて、実は結構お節介で、でも押しつけがましくなくて、距離を詰めるのが上手かった。
人の領域には決して土足で踏み込まない。けれど絶妙な距離でそっと寄り添ってくる。
それがとても居心地が良かった。
誰かと一緒にいることが苦手だったはずなのに、気づけば朱里と会えない日の方が寂しく感じるようになっていた。
だから、転校が決まった時は平然を装いながらも心の奥で絶望していた。
それでも、最後に想いを伝えることができれば、きっと何かが変わると思っていた。
──けれど、あの朝。朱里は来なかった。
電話も繋がらず、そのまま何も伝えられなかった。自分も、何も言わずに去った。
来れなかった理由も、言えなかった事情も、いくらでも想像できた。
けれど「来なかった」という事実だけが、鋭い棘になって朔也の胸に突き刺さっていた。
自分は拒絶されたのだ、と。
振られたのだ、と。
そう思うことでしか、気持ちの整理がつかなかった。
その日から、過去に蓋をした。
彼女にはもう会いたくなかった。
”気にしてない”なんてただの強がりで、本当はその後の人間関係にも影響するぐらい心が抉られる出来事だった。
ただ、今さらそれを彼女に伝えるつもりはない。責めたいわけじゃないから。
彼女には彼女の事情があった。
誰のせいでもなく、仕方がなかったのだ。
──朱里のいない暗い部屋で、静寂に耐えきれず頭を抱えた時。
ふと、携帯が震えた。
朱里からのメッセージだった。
《今日は本当にありがとう。おかげさまで無事に帰れました。タクシー代、今度会った時に返すね》
《帰るとき、ちょっとだけ泣きそうだった》
《ごめん、変なこと言って。おやすみなさい》
スマホを見つめたまま、ふっと小さく笑う。
泣きそうだったのは、こっちもだ。
朔也は短く返事を打つ。
《無事に帰れてよかった。おやすみ》
闇の中、小さな光が胸の奥に灯る。
その光を、もう失いたくはなかった。
その静けさがどこか耳に痛くて、朔也はしばらく動けなかった。
2人でキッチンに立って、並んで洗い物をした時間が、夢のように遠い。
今はただ、静かな空間がやけに虚しく感じられた。
ソファに腰を落とし、背もたれにもたれて天井を仰ぐ。
『泊まっていけよ』
その一言が喉まで出かかっていたのに。
最後まで言えなかった。
(……あれでよかったんだ)
理性はそう告げている。
けれど、その理屈とは裏腹に、胸の奥はぽっかりと空いたままだ。
──10年前、あの冬の朝。
彼女が来なかった場所で1人ずっと待っていた。
そのときに感じた空虚感と、今の感覚はどこか似ている。
(気にしてないなんて、嘘だ)
本当はあの日、彼女に気持ちを伝えるつもりだった。
朔也が最初に朱里と出会ったのは、中学2年の春頃だった。
父親のDVが原因で、小学校の頃に両親が離婚して以来、周囲の憐れみや同情に嫌悪し、人と関わるのが面倒で、どこにも居場所を作ろうとしなかった。
そんなある日、図書室で棚の上段から本を引き抜こうとした拍子に、文庫本を何冊も落としてしまった。
「──あ」
派手な音が響き、チッと舌打ちしたその時。
「……大丈夫?」
背後で柔らかい声がした。
朔也が振り向くと、一人の女の子がしゃがんで本を拾っている。
見たことがない。隣のクラスか、それとも下の学年だろうか。
肩までの髪を2つに結んだ、幼い顔立ちの彼女は落ちた本を一冊、二冊と手際よく拾って棚に戻してくれた。
「ここの棚、ちゃんと整理してなかったんでしょ。ごめんね」
そう言って、笑った。
頬がふわりとほころぶような、暖かな笑顔。
その瞬間、胸のどこかが静かに震えた。
それが、朱里との最初の出会いだった。
その時は名前も知らなかった。
ただ、その笑顔だけが胸に焼きついて離れなかった。
その後、彼女は図書委員で、本の整理も仕事だからあの時ごめんねと謝ったのだということが分かった。
それから図書室で彼女を何度か見かけるたびに、自然と目で追ってしまった。
本を貸し出すときのわずかな遣り取り。
貸し出しカードを真剣に整理している横顔。
誰にでも変わらず優しいのに、なぜか自分に向けたあの笑顔だけが、特別に思えた。
中学3年になって初めて同じクラスになった時、名前を知った。
「私、藤井朱里。よろしくね」
──あの時の子だと直ぐに分かった。
自分に向ける屈託のない笑顔がまともに見れなくて、「……ああ」とだけ言うのが精一杯だった。
それから、放課後、たまたま河原で会ってから少しずつ言葉を交わすようになった。
朱里は一見大人しそうにみえて、実は結構お節介で、でも押しつけがましくなくて、距離を詰めるのが上手かった。
人の領域には決して土足で踏み込まない。けれど絶妙な距離でそっと寄り添ってくる。
それがとても居心地が良かった。
誰かと一緒にいることが苦手だったはずなのに、気づけば朱里と会えない日の方が寂しく感じるようになっていた。
だから、転校が決まった時は平然を装いながらも心の奥で絶望していた。
それでも、最後に想いを伝えることができれば、きっと何かが変わると思っていた。
──けれど、あの朝。朱里は来なかった。
電話も繋がらず、そのまま何も伝えられなかった。自分も、何も言わずに去った。
来れなかった理由も、言えなかった事情も、いくらでも想像できた。
けれど「来なかった」という事実だけが、鋭い棘になって朔也の胸に突き刺さっていた。
自分は拒絶されたのだ、と。
振られたのだ、と。
そう思うことでしか、気持ちの整理がつかなかった。
その日から、過去に蓋をした。
彼女にはもう会いたくなかった。
”気にしてない”なんてただの強がりで、本当はその後の人間関係にも影響するぐらい心が抉られる出来事だった。
ただ、今さらそれを彼女に伝えるつもりはない。責めたいわけじゃないから。
彼女には彼女の事情があった。
誰のせいでもなく、仕方がなかったのだ。
──朱里のいない暗い部屋で、静寂に耐えきれず頭を抱えた時。
ふと、携帯が震えた。
朱里からのメッセージだった。
《今日は本当にありがとう。おかげさまで無事に帰れました。タクシー代、今度会った時に返すね》
《帰るとき、ちょっとだけ泣きそうだった》
《ごめん、変なこと言って。おやすみなさい》
スマホを見つめたまま、ふっと小さく笑う。
泣きそうだったのは、こっちもだ。
朔也は短く返事を打つ。
《無事に帰れてよかった。おやすみ》
闇の中、小さな光が胸の奥に灯る。
その光を、もう失いたくはなかった。