エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

懇親会

 月曜の朝。
 会社の入り口を抜けると、冬の冷たい空気がオフィスの暖房にじわじわと溶けていった。

「おはようございまーす」

 朱里はいつものデスクに向かい、パソコンを立ち上げると、社内メールに一通のメッセージが来ていた。

【お疲れ!綾野先生の件、収束したみたいだな!サンキュー!今度お礼に奢る!なんか考えといて】

 メールの差出人は見なくても分かる。
 こんな軽い内容を社内メールで送ってくるのは同期の北村だけだ。

【お疲れ。収束して良かったね。こっちはこれから懇親会の準備でバタバタだからお礼なんていいよ。全部弁護士先生のおかげだし】

 朱里は肩の力を少し抜いて、小さく息をついた。

 何にせよ良かった。
 あの後、朔也の見解を上司に報告して、無事に広報部まで届いたのだろう。
 土日の間に会社のホームページには公式の説明文が記載されていた。
 週末を挟んでようやく炎上が落ち着いたことに、安堵感が込み上げてくる。

 そして、ふと頭に浮かぶのは──

(……神崎くん)

 あの時、彼が直接会社に来てくれたから救われたんだ。

 朱里はキーボードを叩き、彼宛に短いメールを送った。

【件名:ありがとうございました

 佐原法律事務所
 神崎先生

 お世話になっております。
 先週は弊社まで来て頂き、本当にありがとうございました。
 おかげさまでトラブルも落ち着きました。
 あの時、すぐに動いてくださって心強かったです。

 今後ともよろしくお願いします。

 明月出版 
 総務課 藤井朱里】

 送信ボタンを押して間もなく、即座に返信が届く。

【件名:Re: ありがとうございました

 明月出版 総務担当
 藤井朱里様

 ご報告ありがとうございます。

 本件につきましては御社広報部の迅速かつ的確な対応が功を奏したものと考えます。
 私が関与した部分はごく僅かですので、お気遣いには及びません。

 こちらこそ、また何かあればいつでもご相談下さい。

 佐原法律事務所
 神崎 朔也】


 画面を見ながら、彼らしい文章に小さく微笑んでしまう。

(なんか、変な感じ)

 なんとなく、週末のやりとりを思い出していた。


 土曜日。
 朱里が「雨ですね」と他愛もない一言を送ったのがきっかけだった。

《明日も雨みたいですね》

《そうだな》

《来週も、天気悪そう》

《大丈夫。朝焼けは逃げないから》

 たったそれだけのやりとりに、どうしようもなく胸があたたかくなる。

 冷たいようで、実は優しい彼の言葉に、何度もスマホを見返していた。

 メールだけなのに、まるで隣にいてくれるような心地になっていたのは、自分だけだろうか。

(こんな風に連絡取り合うなんて、数ヶ月前じゃ考えられなかったな)

 静かに頬が緩む。

 そんな時、社内メールの通知が鳴った。


【全体連絡:来週末の懇親会に向けて、各担当は準備を進めてください。レイアウト最終案、ケータリングの発注、出欠確認など、一旦まとめますので水曜日までに提出お願いします】

 総務主任からだ。

(……やば、集中)

 気持ちを切り替えて、朱里はまたパソコンに向き直った。
 心の奥には、まだ小さな灯のように、彼のメールがあたたかく残っている。


 ***


「藤井さーん、会場レイアウト、最終でこれ、大丈夫だと思います?」
「はい、それでお願いします。あ、でも受付の位置、少し右寄せにしたほうがいいかも……あと、立食スペースの動線、もう少し広げられますか?」
「了解です!」

 昼休み前。
 会議室の長机にプリントアウトされたレイアウト案とにらめっこしながら、朱里は次々と声をかけられる。
 懇親会の準備は、いよいよ佳境だった。

 ”忘年会を兼ねた懇親パーティー”
 ホテルの大広間を借りて行われる毎年恒例の懇親会は、普段リモートの多い部署も集まるため、社員数以上にスタッフや外部関係者も多く、地味に大仕事だ。

「藤井さん、すみません。料理の最終確定なんですけど、アレルギー対応の人数、確定してましたっけ?」
「3人分ですよ。ケータリング業者にはもう伝えてあるので、そのままで大丈夫です」
「わあ、助かります~!」

 社内ではしっかり者として知られている朱里。
 チーフである総務主任が最終的にまとめるが、細かい現場のまとめ役はいつも彼女が中心になって進めていた。
 性格上、気がつけば「私がやったほうが早い」に陥りがちだが、不思議と今はそこまで疲れを感じなかった。

(……神崎くんのおかげかな)

 週末、メールで交わした何気ない言葉の数々。
 彼の言葉は、どれも無駄がなく、でも不思議と心に残る。

 少し前までだったら、週明けの忙しさに眉間にシワを寄せていたかもしれない。
 でも今は、目の前の仕事にも前向きに向き合えている気がする。

「藤井さん、すごいですね。全部、ちゃんと把握してるんだもん」

 後輩がぽつりとつぶやいた。

「……いや、全然。頭パンク寸前だよ」

 苦笑しながらも、少し誇らしい気持ちになる。
 仕事の大変さを、今は“やりがい”に感じていた。



 ***


 年末進行の忙しさに追われて、気づけば懇親会はもう目前だった。
 12月も終わりに差しかかり、街は年の瀬の慌ただしさに包まれている。

 朝焼けを一緒に見ようと約束してから、週末もあっという間に過ぎてしまった。
 その約束が果たせなかったのは、単純に天気が悪かったこともあるけれど、それ以上に──懇親会の準備が、本当に忙しかったのだ。

 まとめ役とはいえ、朱里の立場は“若手”。
 手足を動かす仕事も自然と回ってきて、細々とした調整に追われる日々だった。

(……メール、しそびれちゃったな)

 今週土曜日の予報は“曇り”という、微妙な天気。
 でも、今さら「今週も無理そうだね」と送るのも、何だか間の抜けた感じがしてそのままになってしまった。

 それに、懇親会のことで気になっていることがもう一つ。

 彼は……来るんだろうか?

 顧問弁護士だから、当然会社からの一斉メールで招待はしている。

 前任の佐原先生からは”欠席”の返信が来ていた。
 それは、”彼も来ない”の意味か、それとも代わりに来てくれるのか。

 立食式のパーティーなので、大体の人数さえ把握できれば特に出欠確認は厳守していない。
 所属の作家も多いため、突然来たり、来なかったり比較的自由なのだ。

 けれど、彼がこういう集まりに来るとはあまり思えなかった。

(来ないかもな……)

 実際、朔也は人混みが苦手そうだし、年末は本業も忙しいはずだ。

 朱里はメッセージアプリで個人的に確認をしようかと思ったが、止めた。

(気を遣わせちゃう、よね)

 はあ、と勇気のない自分に溜息が溢れる。

 雨のあの日から、2週間。
 会いたい気持ちが、募っていた。
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