エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
金曜日。懇親会当日。
立食形式の懇親会は、年末らしい華やいだ空気に包まれていた。
編集部や営業チーム、作家陣、外部スタッフたちも入り混じり、会場はすっかり熱気に満ちている。
(さすがに……来ないよね)
朱里はグラスを持ったまま、ふと入口の方へ視線を向けた。
その時だった。
人混みの奥に、不意に背の高い男性の姿が見えた。
黒のチェスターコートを腕にかけ、視線を落としながら入ってくるその姿に、思わず息を飲む。
(……神崎くん?)
スーツ姿はいつも通りなのに、どこか違って見える。
白シャツに濃紺のネクタイ、よく見るとコートの裏地もネイビーの配色で、光沢を抑えた革靴の先まで全てが完璧に整っている。
その場の喧騒が一瞬遠のいたような気がした。
朔也は会場をざっと見渡し、視線が朱里を捉えると、僅かに口元を緩めた。
その仕草に何人かが振り返る。
朱里はグラスを近くのテーブルに置き、彼に小さく笑みを返した。
「神崎先生、来て頂いてありがとうございます」
彼はこちらに歩いてくる。
「……どうも」
「こういう場所、苦手かと思ってました」
思わず出た言葉に、朔也は少し肩を竦めて見せた。
「……実は、もう帰りたい」
小声で微笑む朔也の言葉に、朱里は笑いをこらえる。
「ふふ、でも、来てくれたんだ」
そんな会話を交わす二人の間に、柔らかな空気が流れていた。
「──あれ?藤井、もしかして神崎先生?」
不意に背後からかけられた声に、朱里がはっと振り返る。
そこにいたのは、同期の北村だった。
「あっ、うん……紹介するね。こちら、神崎朔也さん。今回、例の件で助けていただいた弁護士さんだよ」
「初めまして。編集部の北村と申します」
北村は名刺を差し出しながら丁寧に一礼した。けれど、目元にはほんの僅かに動揺が滲んでいる。
「今回の炎上トラブルの件、本当にありがとうございました。まさか直接お越しいただけるとは……ぜひ今後とも、仲良くしていただけたら嬉しいです」
「神崎です。……どうも」
朔也も名刺を渡して礼を返しつつも、そのまなざしは冷静に北村を見つめていた。
「神崎先生って、お若いですね。失礼ですが、おいくつですか?」
「25です」
「えっ、俺と同じですね!あと、こいつも」
ぽんと朱里の頭に北村の手が乗る。
一方、朱里は朔也の機嫌が目に見えて曇っているのを感じ取っていた。
「北村くん、確か綾野先生も来られてたんじゃない?さっき私、見かけたから……」
言いながらさり気なく北村から一歩離れる。
「あ、そうなんだ?うん……なら、後で挨拶しておくよ」
といいつつも、北村はすぐに動こうとしない。
(あれ?今のはそれとなく促したつもりなんだけど……)
朱里が少し困ったように眉を寄せた、そのタイミングで朔也が静かに口を開く。
「……すみません、飲み物を頂けますか」
「あ、すみません、気づかなくて。こちらです」
朔也の助け舟に乗って、彼をドリンクコーナーへ連れて行く。
流石に北村もそこまではついてこなかった。
ドリンクコーナーにはソフトドリンクと、ビールサーバー、ワインなどが揃っていたが、ホテルのスタッフに直接注文もできるようになっている。
朱里はドリンクメニューを渡しながら、小さくため息をついた。
「……ごめんね。彼、ちょっと空気読まないとこあって」
「いや。空気は読んでたと思うよ」
「え?」
「だからこそ、離れなかったんだろ」
朔也はグラスにソフトドリンクを注ぎながら、ぼそりと呟く。
朱里はほんの少し目を見開いた。
朔也の目元が僅かに険しく、声のトーンもいつもより低くて硬い気がする。
(……まさか、嫉妬してくれた……?)
そう思った瞬間、自分の顔が熱くなっているのに気づいた。
まさか。
きっと気のせい。
たまたま彼の機嫌が良くなかっただけ。
けれど、さっきふと目が合ったときの朔也の視線。
まっすぐで、強くて、でもどこか不安げで……
あんなふうに見つめられたのは、初めてかもしれない。
(……こっちまで、心臓が持たないってば)
誰もが楽しげに笑い合うざわめきの中、朱里はひとり、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
“ちゃんと話したい。ちゃんと向き合いたい”
そんな気持ちが、だんだんと膨らんでいく。
この夜が終わる前に。
どこかで、ふたりだけになれたら。
朱里がそっと決意を固めると、横に立つ朔也の存在がまるで温度を持っているかのように肌に伝わってきた。
視線を合わせようとしたその時──。
「藤井さん!」
振り返ると、総務課の後輩が走ってきていた。
緊張した面持ちで手元のメモを握りしめている。
「抽選会の景品、搬入終わったみたいで。今、控室に置いてあるそうなんですけど、リストと数が合ってるか確認してほしいって……」
「あ、うん、わかった。ありがとう」
朱里はすぐに現実に引き戻され、朔也の方へと向き直る。
「ごめん。ちょっと行ってこなきゃ」
「ああ。仕事なんだろ?」
「……すぐ戻るから。もうちょっとだけ、いて?あとで話せたら、嬉しい」
「わかった。……待ってる」
その一言が、朱里の背中をそっと押した。
離れがたさを胸に抱きながら、業務のために足早に控室へと向かう。
途中、総務課の課長を探し、朔也が来ているので挨拶をするよう伝えてきた。
景品の検品が終わって控室から戻ると、タイミングよく課長が朔也の相手をしてくれていた。
けれど、一息つく間もなく、料理の補充の確認と司会者への合図、次のビンゴ景品の並べ替えと、やることは山積みだ。
ふと、彼の前に課長ではない誰かが立っているのが目に入る。
「……あ」
思わず、声が漏れそうになった。
胸の奥に、ぬるくてざらついたものが浮かび上がってくる。
彼女は総務課の同僚で、吉田香織。
朱里の一つ下の後輩だった。
いつもロングの髪を巻いて、ネイルもメイクも余念がない彼女は、大抵休憩中に合コンの話をしている。
さっそく朔也に目をつけたようだ。
朔也がモテないわけがない。
いくら無愛想で”話しかけるなオーラ”を出していたとしても、イケメンエリート弁護士を肉食系女子が放っておくわけがないのだ。
分かってる。
分かってるのに。
香織が少し前のめりに話しかけて、朔也は静かに返す。
その距離が縮まっていくように見えるだけで、なぜだか、喉の奥がつかえたように息苦しくなった。
(……笑ってる?ううん、気のせい。あの人そんなに簡単に笑う人じゃない)
そう言い聞かせながらも、なぜだか目が離せない。
「──あっ、藤井さん!次の抽選の準備、お願いします!」
同僚の呼ぶ声に、我に返った。
「……はい、今行きます」
グラスの水をひと口飲んで、無理に気持ちを切り替える。
──いけない。今は、ちゃんと仕事をしないと。
朱里は、景品を運ぶため控室へ急いだ。
「重そうだな。手伝おうか?」
控室で声をかけてきたのは北村だった。
今日はやけに絡んでくるなと少しだけ警戒しつつも、準備で手一杯な今は素直に甘えることにした。
「……いいの?じゃあお願い。これと、これと、これ、運んでもらえる?」
「うおっ、けっこうあるな。なんだよこれ、ダンベルか?」
「助かる〜!課長たち、全然動いてくれないんだもん」
北村が苦笑まじりに景品の箱を抱えながら後に続き、ふたりで会場の隅へと向かう。
ひとつひとつ並べ終えると、朱里は肩の力を抜いて小さく息をついた。
「ふう……これで全部かな」
ありがとうと、北村に向けて伝えると、彼は僅かに身体を寄せて小声で囁く。
「てかさ、おまえ、あの弁護士のこと狙ってんの?」
「えっ……な、何それ、急に!」
思わず声が裏返ってしまった。
「へえ、ああいうタイプが好みなんだ。顔はいいけど、ガード堅そうじゃね?」
「ちょっと!変な言い方しないでよ。……こっちは今それどころじゃないの。準備、終わらせなきゃいけないんだから」
顔が熱くなるのを誤魔化すように言いながら、朱里はそそくさと次の作業へと足を向けた。
立食形式の懇親会は、年末らしい華やいだ空気に包まれていた。
編集部や営業チーム、作家陣、外部スタッフたちも入り混じり、会場はすっかり熱気に満ちている。
(さすがに……来ないよね)
朱里はグラスを持ったまま、ふと入口の方へ視線を向けた。
その時だった。
人混みの奥に、不意に背の高い男性の姿が見えた。
黒のチェスターコートを腕にかけ、視線を落としながら入ってくるその姿に、思わず息を飲む。
(……神崎くん?)
スーツ姿はいつも通りなのに、どこか違って見える。
白シャツに濃紺のネクタイ、よく見るとコートの裏地もネイビーの配色で、光沢を抑えた革靴の先まで全てが完璧に整っている。
その場の喧騒が一瞬遠のいたような気がした。
朔也は会場をざっと見渡し、視線が朱里を捉えると、僅かに口元を緩めた。
その仕草に何人かが振り返る。
朱里はグラスを近くのテーブルに置き、彼に小さく笑みを返した。
「神崎先生、来て頂いてありがとうございます」
彼はこちらに歩いてくる。
「……どうも」
「こういう場所、苦手かと思ってました」
思わず出た言葉に、朔也は少し肩を竦めて見せた。
「……実は、もう帰りたい」
小声で微笑む朔也の言葉に、朱里は笑いをこらえる。
「ふふ、でも、来てくれたんだ」
そんな会話を交わす二人の間に、柔らかな空気が流れていた。
「──あれ?藤井、もしかして神崎先生?」
不意に背後からかけられた声に、朱里がはっと振り返る。
そこにいたのは、同期の北村だった。
「あっ、うん……紹介するね。こちら、神崎朔也さん。今回、例の件で助けていただいた弁護士さんだよ」
「初めまして。編集部の北村と申します」
北村は名刺を差し出しながら丁寧に一礼した。けれど、目元にはほんの僅かに動揺が滲んでいる。
「今回の炎上トラブルの件、本当にありがとうございました。まさか直接お越しいただけるとは……ぜひ今後とも、仲良くしていただけたら嬉しいです」
「神崎です。……どうも」
朔也も名刺を渡して礼を返しつつも、そのまなざしは冷静に北村を見つめていた。
「神崎先生って、お若いですね。失礼ですが、おいくつですか?」
「25です」
「えっ、俺と同じですね!あと、こいつも」
ぽんと朱里の頭に北村の手が乗る。
一方、朱里は朔也の機嫌が目に見えて曇っているのを感じ取っていた。
「北村くん、確か綾野先生も来られてたんじゃない?さっき私、見かけたから……」
言いながらさり気なく北村から一歩離れる。
「あ、そうなんだ?うん……なら、後で挨拶しておくよ」
といいつつも、北村はすぐに動こうとしない。
(あれ?今のはそれとなく促したつもりなんだけど……)
朱里が少し困ったように眉を寄せた、そのタイミングで朔也が静かに口を開く。
「……すみません、飲み物を頂けますか」
「あ、すみません、気づかなくて。こちらです」
朔也の助け舟に乗って、彼をドリンクコーナーへ連れて行く。
流石に北村もそこまではついてこなかった。
ドリンクコーナーにはソフトドリンクと、ビールサーバー、ワインなどが揃っていたが、ホテルのスタッフに直接注文もできるようになっている。
朱里はドリンクメニューを渡しながら、小さくため息をついた。
「……ごめんね。彼、ちょっと空気読まないとこあって」
「いや。空気は読んでたと思うよ」
「え?」
「だからこそ、離れなかったんだろ」
朔也はグラスにソフトドリンクを注ぎながら、ぼそりと呟く。
朱里はほんの少し目を見開いた。
朔也の目元が僅かに険しく、声のトーンもいつもより低くて硬い気がする。
(……まさか、嫉妬してくれた……?)
そう思った瞬間、自分の顔が熱くなっているのに気づいた。
まさか。
きっと気のせい。
たまたま彼の機嫌が良くなかっただけ。
けれど、さっきふと目が合ったときの朔也の視線。
まっすぐで、強くて、でもどこか不安げで……
あんなふうに見つめられたのは、初めてかもしれない。
(……こっちまで、心臓が持たないってば)
誰もが楽しげに笑い合うざわめきの中、朱里はひとり、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
“ちゃんと話したい。ちゃんと向き合いたい”
そんな気持ちが、だんだんと膨らんでいく。
この夜が終わる前に。
どこかで、ふたりだけになれたら。
朱里がそっと決意を固めると、横に立つ朔也の存在がまるで温度を持っているかのように肌に伝わってきた。
視線を合わせようとしたその時──。
「藤井さん!」
振り返ると、総務課の後輩が走ってきていた。
緊張した面持ちで手元のメモを握りしめている。
「抽選会の景品、搬入終わったみたいで。今、控室に置いてあるそうなんですけど、リストと数が合ってるか確認してほしいって……」
「あ、うん、わかった。ありがとう」
朱里はすぐに現実に引き戻され、朔也の方へと向き直る。
「ごめん。ちょっと行ってこなきゃ」
「ああ。仕事なんだろ?」
「……すぐ戻るから。もうちょっとだけ、いて?あとで話せたら、嬉しい」
「わかった。……待ってる」
その一言が、朱里の背中をそっと押した。
離れがたさを胸に抱きながら、業務のために足早に控室へと向かう。
途中、総務課の課長を探し、朔也が来ているので挨拶をするよう伝えてきた。
景品の検品が終わって控室から戻ると、タイミングよく課長が朔也の相手をしてくれていた。
けれど、一息つく間もなく、料理の補充の確認と司会者への合図、次のビンゴ景品の並べ替えと、やることは山積みだ。
ふと、彼の前に課長ではない誰かが立っているのが目に入る。
「……あ」
思わず、声が漏れそうになった。
胸の奥に、ぬるくてざらついたものが浮かび上がってくる。
彼女は総務課の同僚で、吉田香織。
朱里の一つ下の後輩だった。
いつもロングの髪を巻いて、ネイルもメイクも余念がない彼女は、大抵休憩中に合コンの話をしている。
さっそく朔也に目をつけたようだ。
朔也がモテないわけがない。
いくら無愛想で”話しかけるなオーラ”を出していたとしても、イケメンエリート弁護士を肉食系女子が放っておくわけがないのだ。
分かってる。
分かってるのに。
香織が少し前のめりに話しかけて、朔也は静かに返す。
その距離が縮まっていくように見えるだけで、なぜだか、喉の奥がつかえたように息苦しくなった。
(……笑ってる?ううん、気のせい。あの人そんなに簡単に笑う人じゃない)
そう言い聞かせながらも、なぜだか目が離せない。
「──あっ、藤井さん!次の抽選の準備、お願いします!」
同僚の呼ぶ声に、我に返った。
「……はい、今行きます」
グラスの水をひと口飲んで、無理に気持ちを切り替える。
──いけない。今は、ちゃんと仕事をしないと。
朱里は、景品を運ぶため控室へ急いだ。
「重そうだな。手伝おうか?」
控室で声をかけてきたのは北村だった。
今日はやけに絡んでくるなと少しだけ警戒しつつも、準備で手一杯な今は素直に甘えることにした。
「……いいの?じゃあお願い。これと、これと、これ、運んでもらえる?」
「うおっ、けっこうあるな。なんだよこれ、ダンベルか?」
「助かる〜!課長たち、全然動いてくれないんだもん」
北村が苦笑まじりに景品の箱を抱えながら後に続き、ふたりで会場の隅へと向かう。
ひとつひとつ並べ終えると、朱里は肩の力を抜いて小さく息をついた。
「ふう……これで全部かな」
ありがとうと、北村に向けて伝えると、彼は僅かに身体を寄せて小声で囁く。
「てかさ、おまえ、あの弁護士のこと狙ってんの?」
「えっ……な、何それ、急に!」
思わず声が裏返ってしまった。
「へえ、ああいうタイプが好みなんだ。顔はいいけど、ガード堅そうじゃね?」
「ちょっと!変な言い方しないでよ。……こっちは今それどころじゃないの。準備、終わらせなきゃいけないんだから」
顔が熱くなるのを誤魔化すように言いながら、朱里はそそくさと次の作業へと足を向けた。