エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
 ビンゴ抽選会が始まり、景品の確認や司会への報告も済ませると、朱里の担当部分はようやく終わった。
 あとは片づけまで一息つける。
 と、ふと周囲を見回す。

(……神崎くん、いない?)

 それまでずっと視界の端に感じていた気配が、どこにも見当たらなかった。

(もしかして、帰っちゃったのかな)

 不安になって、会場の出入り口の扉を開けると──
 廊下の突き当たり、窓のそばに佇む人影を見つけた。

 逆光でシルエットになった横顔。
 すっかり暗くなった外を見つめている。
 その姿を見た瞬間、朱里は心の奥で安堵の息を吐いた。

「……帰っちゃったのかと思った」

 近づいて小さく声をかけると、朔也は微かに笑ったような気がした。

「ごめんね、待たせちゃって……」
「……やっぱり帰りたい」

 彼の言葉に、朱里がほんの少しだけ寂しそうに目を伏せた、その瞬間だった。

「──え」

 不意に手首を取られた。

 驚いて顔を上げるより早く、ぐいっと引っ張られて、エレベーターホールへと向かう。

「え、ちょっ、ちょっと、神崎くん!?」

 彼は戸惑う朱里の手首を掴んで離さない。

「私、まだ仕事中っ」
「風邪引いたって言っとけ」
「ええぇ!?」

 エレベーターで一階のエントランスへ。扉が開くと、再び強引に連れ出される。

「……待って、荷物取ってくるから」

 朱里が立ち止まり、息を整えながら訴えると、朔也は「ああ」と手を離した。

 その言い方がなんだか少しだけ素直で、強引さの裏にある照れを誤魔化しているようにも思えた。


 クロークのカウンターで自分の荷物を受け取ると、朱里はやっと気が抜けたように肩を落とす。

「ほんとに、このまま帰るの?」

「……いや、」朔也は少しだけ視線を外して呟いた。

 ホテルのエントランスを出ると、夜の街は静かで都会の喧騒が少し遠くに感じられた。

 コートの襟を立てながら歩く朔也の横を、朱里は少し遅れてついていく。
 2人、無言のまま歩いているのに不思議と気まずくはなかった。

 朔也は前を向いたまま、静かに言葉を続けた。

「……ただ、おまえをあの場から連れ出したかった。それだけだ」

 朱里は小さく息を吸い込む。

「どうして?」
「……理由、言わなきゃダメか?」
「……うん、聞きたい」

 朔也は立ち止まり、朱里の方に目を向ける。

「……あいつと、あんな風に話してるのを見てたら、落ち着かなくなった」
「……」
「それだけ」

 ”あいつ”が、誰を指しているのか直ぐに分かった。
 彼は、たったそれだけの理由で朱里を仕事中に連れ出した。冷静に考えれば非常識で、衝動的すぎる行動。
 でも──

「……なんか、嬉しいかも」

 朱里がふっと笑った。

 その笑みに朔也は少しだけ顔を逸らして、低く息をついた。

「……それもそれで、調子狂う」
「こっちのセリフだよ」

 ふたりの影が、街灯に細長く伸びていた。
 夜の空気は冷たいのに、肩先がじんわりと暖かい気がした。


 夜道を、朔也と並んで歩いた。
 どこへ向かっているのか、本人も分かってなさそうだったが、朱里は何も聞かなかった。

 ただ、肩が時折かすかに触れる距離で、無言の時間が続いていく。

 やがて、街の喧騒が少しずつ遠ざかり、気づけば、見知らぬ高台の公園にたどり着いていた。人通りは少なく、木立の向こうに見える街の灯りが夜空に滲んでいる。

 ふたりはそのまま、フェンスのそばに並んで立った。
 夜風が吹き抜けるたび、朱里の髪がふわりと揺れる。

「ねぇ」

 朱里はさっきの言葉がずっと引っかかっていた。

「さっきの……もしかして、やきもち?」

 朔也はすぐには答えなかった。
 ただ、夜景を眺めたまま小さく息を吐いて──

「……ああ」

 と、低く呟いた。

「え?」
「そうかもな」

 朱里は少し驚いて顔を向ける。
 彼の声にからかいの響きはなかった。
 ただ、静かで、どこか居心地悪そうな、本音の滲む声だった。

「……どっちなの?」

 聞き返す朱里に、朔也は口元だけで笑う。

「どうだと思う?」
「……答えになってないよ」

 半分呆れて、半分照れ隠しのような声音になった。

 それでも、なぜか心はあたたかくて、夜風の冷たさが不思議と気にならない。

 街の灯りが二人の影を長く落とした。

「嫉妬とか、醜い感情はあんまり出したくない」

 ぽつりと朔也が言う。

「そうかな。私もやきもち妬いたりするけど」

 朱里の声はやわらかくて、どこか笑っているようでもあった。

「さっきの会場で、総務の女の子に話しかけられたりしたのとか、法律事務所にいた受付の美人なお姉さんとか……」
「なんだよ、それ。うちの事務所にいる女性は全員既婚者だし、さっきはおまえがもう少しいて、って言うから、嫌々相手して…」
「それでも、なんかモヤモヤしちゃうんだもん」

 朱里は拗ねたように視線を逸らした。
 朔也はそんな彼女を見つめながら、微かに笑う。

「……なら、おあいこだな」

 その笑みには、優しさと、安堵と、なにより愛しさが滲んでいた。


「上司にメールしなきゃ。無断で抜け出したから、せめて連絡だけでも……」

 朱里はスマホを取り出して、メールを立ち上げると課長宛に、体調が悪くなったので先に帰る旨と直接伝えられずすみませんと続けて送った。

「はぁ〜、こんなことして会社クビになったらどうしよう」

 送った直後、盛大な溜息が溢れる。
 けれど朔也は涼しい顔だ。

「不当解雇なら相談に乗る」
「もう!そうじゃなくて!会社に居づらくなっちゃうでしょ?」
「じゃあ、永久就職すればいい」
「……永久就職?」

 聞き慣れない言葉に朱里はスマホの手を止め、顔を上げた。

「俺と結婚すればいい」

 それはあまりにも普通の口調で言われたため、一瞬何を言われたのかすぐには理解できない。

「なに、言ってるの……」

 朔也はまっすぐに朱里を見つめていた。その視線に冗談の気配は一切見えない。

「プロポーズだよ。俺と結婚してほしい」

 彼の声はとても落ち着いていて、その目に揺らぎはなかった。


 朱里は言葉を失ったまま、その場に立ち尽くす。

 胸の奥からせり上がってくる感情が抑えられない。
 僅かに開いた唇が震えた。

「順番が、違うと、思うんだけど……」

 やっとの思いで言葉にすると、堪えていた涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
 朱里は慌てて手で拭おうとしたが、指先は震えていてうまくいかない。

 朔也がそっと近づき、その手を優しく包んだ。

「……そうだな」

 でも、と続ける声は真剣だった。

「俺はずっと前から、おまえが好きだった。中学の頃から、ずっと忘れられなくて……もう、おまえ以外なんて考えられない」

 静かな夜風が木々を揺らし、朔也の低い声が朱里の心の奥に届く。

 朱里は胸がいっぱいになって、息を吸うのもやっとだった。泣き笑いのまま、言葉を搾り出す。

「……私も、ずっと……ずっと、神崎くんが好きだったよ。再会してからも、今も、ずっと好き」

 朔也は目を伏せ、朱里の言葉を噛み締めるように静かに頷いた。

「だったら……もう、順番なんてどうでもいい。離れたくないんだ。もう二度と」

 その言葉が、朱里の心の奥深くに静かに落ちて、震えるような温かさが広がっていく。

 朔也は朱里の頬に触れ、涙の雫を親指で拭いながら、彼女の瞳の中を覗き込んだ。

 そして、ゆっくりと彼の顔が近づいて、彼女が瞳を閉じた時、朔也の唇が朱里の唇へと重なった。
 唇が触れ合った瞬間、夜の静寂が2人を優しく包み込む。

 誰もいない公園の高台。夜風が吹き抜ける中、2人の肩がそっと寄り添って、お互いの温もりを分け合った。
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