エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

朝焼け

 朔也は朱里の肩から手を離し、両腕で包み込むように背中へ回した。

「……家まで送る」

 切ないような、低く抑えた声が耳元に響く。
 朱里は胸がきゅっと締めつけられた。

「でも……ここからだと、結構遠いよ」

 離れがたくて、素直な言葉が出てこない。

「連れてきたの、俺だし」

 抱き締める腕の力強さに、言葉よりも深い「離したくない」という想いが伝わってくる。

 朱里は視線を伏せ、ふと思い出したように口を開いた。

「じゃあ、この前のタクシー代、出してくれたから……今日は私が」

 朔也は朱里から身体を離すと、小さく笑って首を振った。

「いや、今日は車で来てるから。近くに停めてある」
「え、車、持ってたの?」

 少し驚いた朱里に、朔也は「社用車だけどな。仕事終わりに急いで来たから」と軽く肩をすくめた。


 二人は並んで公園を出た。

 夜風が頬をかすめ、足音だけが静かに響く。
 駐車場へ向かう途中、街灯の下で朔也がさりげなく朱里の手を取った。

「暗いから、足元気をつけろよ」

 低く落ち着いた声に、朱里の胸の奥がほんのり温まる。

 数分歩くと、小さな月明かりに照らされた駐車場が見えてきた。
 朔也は銀色のセダンに近づき、迷いなく助手席のドアを開ける。

「どうぞ」
「ありがとう」

 車内に乗り込むと、エンジンが静かにかかり、ほんのり暖かい風が足元を包み込んだ。
 社用車とはいえ、車内に僅かに香る朔也の残り香に包まれているようで、朱里はなんだか緊張してくる。

「……明日、何か予定ある?」

 シートベルトをしながら、朔也はさり気なく聞いてきた。

「ううん、土曜日だし、特には……」
「じゃあ──」

 彼は一瞬だけ迷い、視線を朱里に合わせた。

「ドライブに付き合ってほしい」
「ドライブ?」
「夕食、食べてないだろ?俺も全然食べてないんだけど」
「確かに……」

 懇親会で、一息ついた時に朔也と抜け出したのだ。忙しくて食べる暇も無かったが、朱里はそれよりも胸がいっぱいで、今は空腹を感じていなかった。

「まあ、でも金曜だし、今からじゃどこも無理だよな」

 スマホでレストランを探している様子の朔也は難しい顔をする。

「ちょっと遠いけど、知り合いのレストランに行ってみよう」

 すぐに電話する朔也の横顔を見ながら、朱里はこっそり思っていた。

(別に、一緒にいられるなら家飲みでもいいんだけど…)


 レストランの予約が取れたようで、シートベルトを確認すると、車は静かに走り出した。

 夜の街の灯りがフロントガラスに柔らかく映り込む。

「運転、するんだね」
「ああ。実家にいる時、祖父母の送迎に必要だったから。こっち来てからはあんまり必要性もなくて、車は買ってないんだ」

 夜道を見据えたままの横顔は、街灯に縁取られて凛としている。

「……でも、これからは必要になるな」
「そうなの?」
「一緒に出かけるときとか、何かあったときとか。便利だろ?」

 笑みを浮かべながらも、その声音は真剣だった。

「……うん」

 朱里は照れたように微笑む。

 窓の外では、街灯がゆっくりと後ろへ流れていった。


 赤信号で止まった時、不意に朔也は片手をそっと朱里の方へ伸ばす。
 指先が触れた瞬間、優しく彼女の手を包み込んだ。

「……ありがとう」

 その小さな声は、車内の静けさに溶けて消える。
 朔也は横目で微笑み、前方の道へ視線を戻した。

「一緒にいてくれて、嬉しい」

 朱里は胸が熱くなるのを感じながら、その手をぎゅっと握り返した。


 車はゆっくりと街を抜け、郊外へ向かって走り出す。
 信号の間隔が広くなるにつれて、夜空が大きく開けていく。

 山の稜線の向こう、遠くの街明かりが宝石を散らしたみたいに瞬いていた。
 朱里は窓に頬を寄せ、そのきらめきに目を奪われる。

「きれい……」

 思わず漏れた声に、朔也がちらりと視線を向けた。

「だろ?この辺は夜景がよく見えるんだ」
「素敵な場所だね。連れてきてくれて、ありがとう」

 朔也は唇の端をわずかに上げ、何も言わずに信号を右折する。

 その先に、木立に囲まれた細い道が現れた。

「もうすぐ着く」

 朔也の言葉に、朱里は次第に心が躍っていく。

 車は郊外の落ち着いた通りへと入り、やがて洋館風のレストランが姿を現した。

「祖父母の知り合いの店なんだ。静かで料理も美味しい」

 車を店の駐車場に停めると、2人で店内に向かう。
 重厚な木の扉を開けると、店内は柔らかな灯りに包まれ、木の温もりが心地よい落ち着いた空間が広がっていた。

 カウンターに立つ中年の男性が、にこやかに出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、朔也くん。どうぞ」
「ご無沙汰してます。山岸さん」

 朔也が丁寧に挨拶する姿を、朱里は横で見つめる。その柔らかな声に、彼の優しさが滲んでいた。

 案内された席に腰を下ろすと、店主は特別に用意したコースを薦めてくれる。

「本日は季節の食材を使った創作料理をご用意しております。最初にお出しするのは、地元で採れた新鮮な野菜の一皿です」

 丁寧な説明のたびに、朱里の瞳は期待で輝きを増していった。

 一口、また一口と味わうたびに、素材の香りと繊細な味の調和が心を満たしていく。

「……美味しい」

 思わずこぼれた小さな声に、朔也がふと目を細めた。

「ここでプロポーズ、すればよかったな」

 唐突な言葉に、朱里はフォークを止め、驚いたように顔を上げる。

「さっきのは衝動的すぎた。こんな場所で、ゆっくり伝えればよかった。反省してる」

 朱里はふふっと優しく笑い、静かに首を振った。

「ううん、神崎くんの意外な一面が見れて、嬉しかったよ」

 朔也はわずかに照れながらも、真剣なまま続ける。

「今度、指輪を見に行こう。ちゃんとやり直しのプロポーズをするから」

 朱里は頬を赤らめ、視線を落としたまま微笑んだ。

「ありがとう。でも……あのね、わたし、永久就職はしないよ。結婚しても仕事は続けるから」
「了解」

 短い言葉に、揺るぎない肯定がこもっていた。

「ほんと、さっきはごめん」

 困ったように謝罪する彼に、朱里は柔らかな微笑みを送った。



 食事の最後の皿が下げられ、テーブルの上には水の入ったグラスと小さなキャンドルだけが残った。炎がゆらりと揺れ、その橙色の光が朔也と朱里の横顔を優しく染めている。

 厨房の奥で食器が軽く触れ合う音がして、それが静かな店内に小さく響いた。

 ふと視線を上げると、オーナーの山岸がトレイを持ってこちらに近づいてくる。

「いかがですか?」

 テーブルの横で立ち止まり、穏やかな笑みを浮かべた。

「とても美味しいです」
「それは良かった」

 山岸は朱里に向けて人懐っこい笑顔を見せると、小ぶりのカクテルグラスを朱里の前に置いた。
 薄いピンク色に透き通る液体、表面には小さなミントの葉が一枚、静かに浮かんでいる。

「何か、良い知らせが聞こえたもので、記念日かと思いまして。こちらは当店から心ばかりのサービスです」

 その言葉に朱里は思わず朔也の顔を見た。彼は少しだけ苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。

「運転があるからワインは控えたほうがいいでしょう。果物の甘みを活かしたノンアルコールカクテルです。どうぞ、ゆっくり味わってください」

 そう言って、同じものを朔也の前にも置き、軽くウィンクをした。

 グラスを受け取った瞬間、冷たさが指先に心地よく伝わる。

 朱里は「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、そっと口をつけると、柑橘の爽やかな香りとベリーの甘酸っぱさが広がっていった。
 まるで今この時間の空気をそのまま閉じ込めたような、やさしい味わいだった。

 オーナーは二人の様子を見守りながら、さらに柔らかい声を落とす。

「朔也くんのお祖父様とお祖母様も、きっと天国で喜んでいらっしゃいますよ。そりゃもう、随分心配されてましたから。介護と勉強に明け暮れて、お嫁さんが来てくれるのかどうかって」

 朱里はグラスを持ったまま、驚きに目を見開く。

 おじいさんとおばあさんの介護。
 そして、二人を看取って、
 その間に司法試験を受けて、弁護士になって──。

 朱里は自分の知らない10年間の朔也の重みを知って、何も言えなくなった。

 朔也はわずかに視線を落とし、居心地悪そうにグラスの縁を親指でなぞっている。

 オーナーは朱里の方に向き直り、にこりと笑った。

「でも今は、こうして彼に可愛らしいお嫁さんができて、本当に良かったと思っています。朔也くんはいい男ですから。私のお墨付きですよ」

 朱里の頬が一気に熱を帯び、視線が泳ぐ。

「はい……ありがとうございます」

 言葉と同時に、ほんのり甘いカクテルの香りが鼻をくすぐった。

「山岸さんにそう言ってもらえるなんて、光栄だな」

 朔也がそう言って、三人の間にふっと和やかな笑い声が生まれた。

 外では夜風が葉を揺らし、店内には料理の名残香とキャンドルの灯りが静かに漂っている。
 それは、心まで満たされる夜の景色だった。
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