エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
 彼とまともに話したのは、夏休みが終わり、塾の夏期講習も終わり、どこか気の抜けた帰り道だった。

 これからまた塾だというのに、どうしても行きたくなくて、学校の裏手の河原の土手をとぼとぼと歩いていた。
 夏の終わりの草の匂い。晴れた空の青さに圧倒されて、思わずふっと息がこぼれた。

 その時。

 草の上にごろんと寝転んでいる男子が目の前にいた。
 両手を後頭部で組んで、片膝を立てている。
 制服のシャツが少し乱れて、ネクタイもゆるい。風に髪が揺れて、彼の輪郭は少し曖昧だったけど、すぐに分かった。

──神崎くん。

「あ……」

 声は出なかった。ただ、彼の存在に気づいた瞬間、足が止まった。

(やば、戻ろ……)

 朱里は慌てて後ろを向いた。無言で立ち去れば、それでよかった──はずだった。

「……何」

 低く、少し掠れた声が、風にまぎれて聞こえた。

 振り返ると、神崎朔也は体を向けないまま、こちらに目だけを向けていた。

「あ、ご、ごめん……!あの……」

 朱里は立ち竦む。
 怖いというよりは、気まずい。
 彼の顔には怒りもなければ、歓迎もなかった。ただ、“誰にも近づかれたくない”という壁のような気配が漂っていた。

「帰ろうと……してたんだけど。気づかれたから、なんか……そのまま帰るのも失礼かなって」
「……意味わかんねぇ」

 一蹴された。
 でも、怒鳴られたわけではない。ただ、突き放すような声。

「……そ、そうだよね。ごめん。じゃ、帰るね」

 踵を返そうとしたその時。

「別に、いろよ」

 また、低い声。

「え?」

 思わず聞き返した。

「どうせ、誰にも言わねぇんだろ」
「……言わないけど」

 朔也はようやく視線を空に戻し、無言になった。
 つまりそれは、暗黙の“ここにいてもいい”という許可。

 朱里は、少しだけ距離をあけて土手に腰を下ろした。
 近くはないけれど、たぶん聞こえる距離。

「今日は空がきれいだね。夏も終わりって感じ……」

 何となく言った言葉に朔也は何も答えなかった。
 一呼吸置いて、朱里は勇気を出して聞いてみた。

「……あの、神崎くんって、教室、息詰まる?」
「別に」

 いつもの口癖。そっけなくて、会話を続ける気がないみたい。

 でも、なぜだか朱里はめげなかった。

「うちのクラス、うるさいもんね。真面目な話してても、すぐ誰かがモノマネ始めるし……」
「……あれ、全然似てねぇよな」

 不意に返ってきた言葉に、朱里はびっくりして彼を見た。

「え、やっぱそう思う?」
「似せようとすらしてねぇ」

 朱里はふふっと笑った。

「でも、それでも笑ってくれる人がいるんだよ。幸せだよね。笑わせるって、難しいじゃん」

 朔也は黙ったまま、視線を空に移した。

 しばらく風の音だけが流れる。
 でも、前よりもその沈黙が優しくなっているように感じた。

「……おまえ、変なこと言うな」
「え?」
「“笑わせるのって難しい”とか。“幸せ”とか。普通、そんなこと考えるか?」
「……え、考えないの?」
「……バカみたいに真面目だな」

 馬鹿にしたような言い草だったけれど──

 その横顔は、少しだけ口元が緩んでいた。
 まるで、思わず笑ってしまった自分に気づいて、慌てて無表情に戻そうとしているみたいに。

 朱里はその一瞬を見逃さなかった。

「……今、ちょっと笑ったよね?」
「笑ってねぇ」
「笑った!」
「うるせぇ。帰れ」

 ぷいと顔を背ける彼に、朱里はくすっと小さく笑った。
 朔也が少しだけ人間らしく見えた気がして、嬉しかった。

 こんなふうに、彼の“少しずつ”を拾い集めていけば、いつかこの空の下でもっと話ができる日が来る気がした。


「ねえ、神崎くん」
「……なんだよ」
「私の名前、知ってる?」
「は?」

 朔也がちらりと視線だけを寄越す。

「私、『おまえ』じゃないし。藤井朱里。ちゃんと名前、あるから」
「…………」
「普通に『藤井』でいいよ。呼び捨てでいいから、『おまえ』はやめて」

 少しふくれたような朱里の表情に、朔也はしばらく黙っていたが──
 やがて、ごくごく小さな声で、ぼそっと呟いた。

「……めんどくせぇな、藤井」
「そう、それでいいの」

朱里はにっこりと笑った。

「素直でよろしい!」
「……調子乗んな」

 ぽつりと返した朔也の口調に、どこか微かな照れが混じっていて、
 朱里の胸がふっと熱くなる。

なんだかこんな小さなやりとりが、愛おしかった。

風が少し強く吹いて、ふたりの前髪をふわりと揺らした。
黙って空を見上げる朔也の横顔が、
さっきよりほんの少しだけ、柔らかくなって見えた気がした。
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