エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
放課後、陽が傾きかけた教室には、パラパラと紙のめくれる音と、遠くの運動部の掛け声が聞こえていた。今日は中間テストの返却日で、どのクラスも同じように一喜一憂の空気が漂っている。
朱里は帰り支度を終えたあと、机に座ったまま、少しだけ教室の後方に目を向けた。
そこにいたのは、やっぱり、神崎朔也だった。
夏が終わって席替えをして、朔也とは席が離れた。
彼はいつも通りひとりきりで、カバンの中に淡々と教科書をしまっている。周囲の喧騒とは無関係のように、静かで冷たくて、だけどどこか寂しげで。
そこへ、ムードメーカーの佐久間がひょこっと顔を出した。
「なー神崎、おまえ何点だったー?」
朔也はちらりとも視線を向けずに、いつもの調子で低く答える。
「……別に。関係ねえだろ」
「なんだよケチ~! いいじゃん、教えてくれてもさあ……あっ!」
佐久間が声を上げる。どうやら朔也が机に置いていた答案用紙をチラ見したらしい。
「げ、マジで!?これ……満点?」
その瞬間、朔也が小さくため息をついた。否定も、肯定もしない。眉が少し寄っただけ。
「……見んなよ」
「いやいや、スゴすぎるって! お前、頭良いんだな。もう少し得意気にしろよ」
「……そういうの、いらねえから」
声に棘はないけど、拒絶ははっきりしていた。
怒鳴るでもなく、睨みつけるでもなく、朔也はそのまま無言で答案用紙をしまった。
朱里はその様子を、少し離れた席からそっと見ていた。
──やっぱり、すごいんだ。
誰にも言わないけど、誰にも見せないけど。
きっとあの人、ずっと努力してるんだ。
教室では近づきがたい空気を纏っていて、誰も真正面から彼に触れようとしない。だけど河原でのあの距離感、たったそれだけのことで、少しずつ彼の言葉や表情に敏感になっている自分がいる。
朱里は立ち上がって、カバンを肩にかける。
帰り際、視線だけでも交わすかな、と思って彼のほうを見た。
けれど朔也は、誰にも気づかれないように静かに席を立ち、窓際に目をやっていた。
その目は、まるで誰にも見えない遠い場所を見ているみたいで──
朱里はふと、胸の奥が、きゅっとなるのを感じた。
(……神崎くんって、やっぱり不思議な人)
そんな言葉が、帰り道ずっと、頭のなかで繰り返されていた。
***
「……神崎くん」
川沿いの土手に座る背の高い彼。
無造作に投げ出された足と、風になびく黒髪。
またここで会うなんて。
でも、本当は偶然じゃない。
(ちょっとだけ……寄ってみようと思ってたんだよ)
塾にはちゃんと行くつもりだった。でも今日もどうしても気が進まなかった。
問題集を開いても全然頭に入らなくて、持ってきたノートを抱えて、なんとなく足が土手へ向いていたのだ。
そのままそっと近づくと、朔也が気づいたように視線を向けた。
「……また、おまえ」
「藤井です」
「フジイ」
「……ちょっと、教えてほしい問題があって」
言いながら、自分でも恥ずかしくなって、俯いてノートを抱きしめる。
彼は何も言わず、しばらく朱里をじっと見た。それから、ふっと鼻で笑って──
「……なんで俺が」
「……だって、神崎くん、頭良さそうだし……」
「関係ねえし。俺、塾の先生じゃねえし」
冷たい返し。でも、少しだけ視線が揺れた気がした。
朱里は遠慮がちに、彼とは少し離れたベンチの端に腰を下ろす。ノートを開いて、ページの端を指でいじる。
「ここが、どうしてもわからなくて……。たぶん、基本のところを間違えて覚えてるんだと思う」
彼は視線を空に戻したまま、何も言わない。
でも、朱里が一人で鉛筆を持ち、ぶつぶつと悩みながら解こうとしていると──すぐ横に、影が落ちた。
「式、間違ってる。そこ、分配法則のとこ見直せ」
「……!」
顔を上げると、朔也がすぐ隣にいて、ノートを覗き込んでいた。
「……べ、別にいいのに……」
「うるせえ。見ててイライラすんだよ」
ぽつりと、でもどこか優しい声音でそう言って、彼は朱里のノートを取り上げる。ペンを持ち、無言で式を書き直していく。
整った字。自信のある線。
それを見て、朱里は胸が少しだけ熱くなる。
「ありがとう、神崎くん」
そう言った朱里に、朔也はそっぽを向いて、
「……ったく、手ぇ焼かせんなよ」
と、呟いた。
その横顔が夕陽に照らされて赤く染まっていたのは、たぶん、光のせいじゃなかった。
ベンチに腰を下ろし、朔也はノートを覗き込む朱里にぽつりと聞いた。
「……おまえ……藤井、塾行かなくていいのかよ」
朱里はえへへと笑って、青空を見上げる。
「だって、ここにいたほうが勉強捗るし」
「……は?」
「神崎くん、教え方うまいし。先生よりずっと分かりやすい」
無邪気な笑顔。心からの言葉。
朱里には計算も裏もない。
朔也は少し眉を寄せて、ペンをくるりと指で回す。そんなはずはないと思いながらも、否定の言葉は喉まで出てきて、言えなかった。
「……ここ、さっきと同じ式だけど、符号間違ってんぞ。プラスとマイナス逆」
「え、また!? うわぁ、ごめん」
朱里が慌てて顔を近づける。
肩がほんの少し触れる距離に、甘い石けんの香りがふわりと漂った。
朔也は視線を逸らすふりをして、ペン先をノートに戻す。
いつものように不機嫌そうに口を尖らせて、
「おまえさ、何回同じミスすんだよ。注意力なさすぎだろ」と吐き捨てる。
けれど朱里は、怒るでもなく、照れたように笑った。
「うん、でも神崎くんが教えてくれるから大丈夫」
その笑顔は、なぜか真っ直ぐで──
心臓を小さく、鋭く、貫いた。
それを隠すように、彼は顔を背けてぼそりと呟いた。
「……バカか、おまえ」
「藤井です」
聞こえてくるのは溜息。
でもそれは、今までとは少しだけ違う──
どこか優しい空気を纏っていた。
勉強が終わると朱里は手をこすり合わせた。
まだ陽は落ちきっていないが、風はすでに秋の匂いを含んでいて、空気はひやりと頬を撫でていく。
「さむ……今日こんなに冷えるなんて思わなかったなあ」
朱里は白い息を吐きながら、セーラー服の袖をぐいっと引き寄せた。
手元の問題集のページが風でぱらりとめくれ、朱里があたふたと押さえる。
その横で、朔也は無言のまま、ポケットに手を突っ込んで立っていた。
朔也の目が、朱里の素足に一瞬だけ向く。
タイツも履いていない。制服のスカートは風に揺れて、膝がきゅっと冷えて見えた。
「……手、かじかんで書けないや」
そう言って、朱里が小さく笑った。
その笑顔を見て、朔也の喉奥がぐっと詰まる。
「……」
朔也は小さく舌打ちすると、無言で自分の着ていた黒のパーカーを脱ぎ、朱里の膝にぽんと投げ置いた。
「……着ろよ。見てるだけで寒い」
それだけ言って、背を向けた。
朱里は驚いたようにパーカーを見つめてから、小さく「ありがとう」と言った。その声が風に乗って、彼の背中に届く。
朔也はそれに応えることなく、ポケットに手を突っ込んだまま、ひとり夕暮れの川沿いをゆっくりと歩き出した。
頬が少し赤かったのは、風のせいじゃなかったかもしれない。
朱里は帰り支度を終えたあと、机に座ったまま、少しだけ教室の後方に目を向けた。
そこにいたのは、やっぱり、神崎朔也だった。
夏が終わって席替えをして、朔也とは席が離れた。
彼はいつも通りひとりきりで、カバンの中に淡々と教科書をしまっている。周囲の喧騒とは無関係のように、静かで冷たくて、だけどどこか寂しげで。
そこへ、ムードメーカーの佐久間がひょこっと顔を出した。
「なー神崎、おまえ何点だったー?」
朔也はちらりとも視線を向けずに、いつもの調子で低く答える。
「……別に。関係ねえだろ」
「なんだよケチ~! いいじゃん、教えてくれてもさあ……あっ!」
佐久間が声を上げる。どうやら朔也が机に置いていた答案用紙をチラ見したらしい。
「げ、マジで!?これ……満点?」
その瞬間、朔也が小さくため息をついた。否定も、肯定もしない。眉が少し寄っただけ。
「……見んなよ」
「いやいや、スゴすぎるって! お前、頭良いんだな。もう少し得意気にしろよ」
「……そういうの、いらねえから」
声に棘はないけど、拒絶ははっきりしていた。
怒鳴るでもなく、睨みつけるでもなく、朔也はそのまま無言で答案用紙をしまった。
朱里はその様子を、少し離れた席からそっと見ていた。
──やっぱり、すごいんだ。
誰にも言わないけど、誰にも見せないけど。
きっとあの人、ずっと努力してるんだ。
教室では近づきがたい空気を纏っていて、誰も真正面から彼に触れようとしない。だけど河原でのあの距離感、たったそれだけのことで、少しずつ彼の言葉や表情に敏感になっている自分がいる。
朱里は立ち上がって、カバンを肩にかける。
帰り際、視線だけでも交わすかな、と思って彼のほうを見た。
けれど朔也は、誰にも気づかれないように静かに席を立ち、窓際に目をやっていた。
その目は、まるで誰にも見えない遠い場所を見ているみたいで──
朱里はふと、胸の奥が、きゅっとなるのを感じた。
(……神崎くんって、やっぱり不思議な人)
そんな言葉が、帰り道ずっと、頭のなかで繰り返されていた。
***
「……神崎くん」
川沿いの土手に座る背の高い彼。
無造作に投げ出された足と、風になびく黒髪。
またここで会うなんて。
でも、本当は偶然じゃない。
(ちょっとだけ……寄ってみようと思ってたんだよ)
塾にはちゃんと行くつもりだった。でも今日もどうしても気が進まなかった。
問題集を開いても全然頭に入らなくて、持ってきたノートを抱えて、なんとなく足が土手へ向いていたのだ。
そのままそっと近づくと、朔也が気づいたように視線を向けた。
「……また、おまえ」
「藤井です」
「フジイ」
「……ちょっと、教えてほしい問題があって」
言いながら、自分でも恥ずかしくなって、俯いてノートを抱きしめる。
彼は何も言わず、しばらく朱里をじっと見た。それから、ふっと鼻で笑って──
「……なんで俺が」
「……だって、神崎くん、頭良さそうだし……」
「関係ねえし。俺、塾の先生じゃねえし」
冷たい返し。でも、少しだけ視線が揺れた気がした。
朱里は遠慮がちに、彼とは少し離れたベンチの端に腰を下ろす。ノートを開いて、ページの端を指でいじる。
「ここが、どうしてもわからなくて……。たぶん、基本のところを間違えて覚えてるんだと思う」
彼は視線を空に戻したまま、何も言わない。
でも、朱里が一人で鉛筆を持ち、ぶつぶつと悩みながら解こうとしていると──すぐ横に、影が落ちた。
「式、間違ってる。そこ、分配法則のとこ見直せ」
「……!」
顔を上げると、朔也がすぐ隣にいて、ノートを覗き込んでいた。
「……べ、別にいいのに……」
「うるせえ。見ててイライラすんだよ」
ぽつりと、でもどこか優しい声音でそう言って、彼は朱里のノートを取り上げる。ペンを持ち、無言で式を書き直していく。
整った字。自信のある線。
それを見て、朱里は胸が少しだけ熱くなる。
「ありがとう、神崎くん」
そう言った朱里に、朔也はそっぽを向いて、
「……ったく、手ぇ焼かせんなよ」
と、呟いた。
その横顔が夕陽に照らされて赤く染まっていたのは、たぶん、光のせいじゃなかった。
ベンチに腰を下ろし、朔也はノートを覗き込む朱里にぽつりと聞いた。
「……おまえ……藤井、塾行かなくていいのかよ」
朱里はえへへと笑って、青空を見上げる。
「だって、ここにいたほうが勉強捗るし」
「……は?」
「神崎くん、教え方うまいし。先生よりずっと分かりやすい」
無邪気な笑顔。心からの言葉。
朱里には計算も裏もない。
朔也は少し眉を寄せて、ペンをくるりと指で回す。そんなはずはないと思いながらも、否定の言葉は喉まで出てきて、言えなかった。
「……ここ、さっきと同じ式だけど、符号間違ってんぞ。プラスとマイナス逆」
「え、また!? うわぁ、ごめん」
朱里が慌てて顔を近づける。
肩がほんの少し触れる距離に、甘い石けんの香りがふわりと漂った。
朔也は視線を逸らすふりをして、ペン先をノートに戻す。
いつものように不機嫌そうに口を尖らせて、
「おまえさ、何回同じミスすんだよ。注意力なさすぎだろ」と吐き捨てる。
けれど朱里は、怒るでもなく、照れたように笑った。
「うん、でも神崎くんが教えてくれるから大丈夫」
その笑顔は、なぜか真っ直ぐで──
心臓を小さく、鋭く、貫いた。
それを隠すように、彼は顔を背けてぼそりと呟いた。
「……バカか、おまえ」
「藤井です」
聞こえてくるのは溜息。
でもそれは、今までとは少しだけ違う──
どこか優しい空気を纏っていた。
勉強が終わると朱里は手をこすり合わせた。
まだ陽は落ちきっていないが、風はすでに秋の匂いを含んでいて、空気はひやりと頬を撫でていく。
「さむ……今日こんなに冷えるなんて思わなかったなあ」
朱里は白い息を吐きながら、セーラー服の袖をぐいっと引き寄せた。
手元の問題集のページが風でぱらりとめくれ、朱里があたふたと押さえる。
その横で、朔也は無言のまま、ポケットに手を突っ込んで立っていた。
朔也の目が、朱里の素足に一瞬だけ向く。
タイツも履いていない。制服のスカートは風に揺れて、膝がきゅっと冷えて見えた。
「……手、かじかんで書けないや」
そう言って、朱里が小さく笑った。
その笑顔を見て、朔也の喉奥がぐっと詰まる。
「……」
朔也は小さく舌打ちすると、無言で自分の着ていた黒のパーカーを脱ぎ、朱里の膝にぽんと投げ置いた。
「……着ろよ。見てるだけで寒い」
それだけ言って、背を向けた。
朱里は驚いたようにパーカーを見つめてから、小さく「ありがとう」と言った。その声が風に乗って、彼の背中に届く。
朔也はそれに応えることなく、ポケットに手を突っ込んだまま、ひとり夕暮れの川沿いをゆっくりと歩き出した。
頬が少し赤かったのは、風のせいじゃなかったかもしれない。