エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
空が茜色に染まり始めた頃、朱里は川沿いの土手に腰を下ろしていた。
塾の時間はとっくに過ぎている。でも今日は、どうしても向かう気になれなかった。
(行かなきゃ……)
そう思いながらも、足は動かない。
風に混じって草の匂いが濃くなる。
そのまま緩やかな坂を上った先で、朱里は不意に足を止めた。
「……神崎くん」
土手の斜面に座り、文庫本を読んでいた背中。
間違いなく、神崎朔也だった。
彼は顔を上げ、少しだけ眉をひそめる。
「……なにしてんだ」
「そっちこそ……本、読んでるの?」
「別に」
朱里は小さく笑い、少し距離を空けて隣に座った。
膝の上には、塾用のトートバッグ。
「……塾は?」
「今日は、いいかなって」
それ以上は聞かれなかった。
朔也は再び本に視線を落とす。
朱里は問題集を開き、うーん、と唸った。
ふと、隣でページをめくる音が止まる。
「……そこ、違う」
「え?」
「その式。最初から間違ってる」
慌てて覗き込むと、朔也はため息をつき、本を閉じた。
自分のペンで、朱里のノートにすっと線を引く。
「ここ。分数の変形が逆」
「……あ、ほんとだ」
「最初から聞けよ」
「絶対、教えてくれないと思ったし……」
朱里が照れたように笑うと、彼は一瞬だけ視線を止めて逸らした。
「ありがとう、神崎くん」
返事はない。
けれど彼はノートをめくり、もう一問指差す。
「……次。ここもやれよ」
「え?」
「わかるまで。途中でやめても意味ねぇだろ」
朱里は目を丸くしてから、頬を緩めた。
「うん」
空はいつの間にか澄んだ藍色に変わっていた。
遠くで電車の音が小さく響く。
「今日、進路希望調査票配られたね」
朔也は空を見たまま短く返した。
「……ああ」
「私『未定』にした」
「ふーん」
「決めきれないんだもん。進学しなきゃとは思ってるけど、何になりたいかも分かんないし」
朱里はちらりと彼を見た。
「神崎くんは?将来のこと、考えてるの?」
「まあ……なるようにしかならねえだろ」
「それ、答えになってないよ」
「……本当はさ」
朔也の声が、風にまぎれて少し低くなる。
「小さい頃、パイロットになりたかった。飛行機じゃなくて、戦闘機。空を飛ぶやつ」
「へえ」
「でも、俺には無理だって気づいた。金もねえし。……夢なんて、現実に潰されるためにある」
それ以上、朱里は何も言わなかった。
そう言えば、春頃に友達が、彼が母子家庭で大変だと言っていたのを思い出す。
確かに彼は、誰とも関わらず、常にひとり。
塾にも通っていない。参考書はボロボロになっていたし、筆箱だってあまり綺麗とは言えなかった。
(だからって、かわいそうとか、同情したいわけじゃない)
でもそれを知ってしまった今、彼の横顔が、どこかいつもより遠く見えた。
風に吹かれても、まるで動じないその横顔。だけどもしかしたら、彼はずっと何かを一人で背負っていたのかもしれない。
「だから俺は、誰にも期待しねえ。夢も見ねえ。……そっちのが楽だろ」
「……神崎くん、強いね」
「は?」
「全部、自分で抱えてるんだなって思って」
朔也は何も返さなかった。
代わりに風が吹いた。朱里の髪が彼の肩に触れる。
「ねえ」
朱里が、少しだけ身体を寄せる。
「私、たぶん神崎くんが思ってるよりもずっと、ちゃんと神崎くんのこと見てると思う」
「……やめろ」
「なんで?」
「おまえが、わかんねえこと言うと……調子狂う」
朱里は小さく笑った。
何度言っても朔也は朱里を『おまえ』と呼ぶ。朱里は半ば諦めていた。
「じゃあ、また明日言うね」
「……バカか」
ぽつりとこぼれた朔也の声に、朱里は空を見上げた。夕闇が、ふたりの距離をそっと包んでいく。
斜め後ろから吹きつける風に、頬が少し冷たい。
朱里は制服のまま、ブレザーを膝にかけて座り直した。
「……ねえ、うちの親さ、けっこう厳しくてさ」
朔也はちらりともこちらを見ない。
朱里は続ける。
「塾も週3で入れられてるし、成績落としたらスマホも取り上げられるの。お兄ちゃんがさ、優秀で。進学校行って、東大目指してる。親にとっては、兄が理想なんだろうなって、なんとなくわかるけど……」
風の音が間を埋める。
「そう思うと、私って何なんだろって、たまに思うんだよね。兄みたいに期待されても困るし、かといって何にも期待されなくてもムカつくし……」
朔也はようやく「ふーん」とだけ言った。それだけなのに、朱里は少しだけ、胸が軽くなった気がした。
「……なんか、ごめん。勝手にしゃべっちゃって」
「……別に」
「神崎くんは、親とうまくいってる?」
「……別に」
「そっか、“別に”か」
朱里は苦笑して空を仰いだ。
──本当にお母さんとふたりなの?
──……ずっと一人で、寂しくなかったの?
でも、それを口に出した瞬間、この“放課後の距離”が壊れてしまう気がして。
朱里は無理に明るく話題を変えた。
「そうだ!山根先生、昨日また熱血してたよ。佐久間くんに“人生とはな!”って語りだして、佐久間くん、目が泳いでた」
「……あいつ、アホだな」
ふ、と朔也の口角がほんの少しだけ上がる。
(……よかった)
朱里の胸の奥が、やわらかくほどける。
「ねえ、神崎くん」
「……ん?」
「今日も空キレイだね。風、気持ちいい」
「……ああ」
それだけの会話。
でも、彼の隣に立つこの場所が、誰にも邪魔されない小さな秘密基地のように思えた。
もしかしたら、彼も少しだけそう思っていてくれたら──
「……私、将来のこととか、全然見えてこないけど。とりあえず、今こうやって誰かに話せる時間があるだけで、ちょっと救われる」
風が吹いた。
空が茜色に染まり始めている。
「……そろそろ帰ろっか」
立ち上がる朱里に、朔也は「おう」とだけ言って、彼女の数歩後ろをついて歩いた。
ふたりの影が、夕陽に伸びていた。
朱里は何気ない顔で、まだ言葉にできない“特別な想い”を、胸の奥に静かにしまった。
塾の時間はとっくに過ぎている。でも今日は、どうしても向かう気になれなかった。
(行かなきゃ……)
そう思いながらも、足は動かない。
風に混じって草の匂いが濃くなる。
そのまま緩やかな坂を上った先で、朱里は不意に足を止めた。
「……神崎くん」
土手の斜面に座り、文庫本を読んでいた背中。
間違いなく、神崎朔也だった。
彼は顔を上げ、少しだけ眉をひそめる。
「……なにしてんだ」
「そっちこそ……本、読んでるの?」
「別に」
朱里は小さく笑い、少し距離を空けて隣に座った。
膝の上には、塾用のトートバッグ。
「……塾は?」
「今日は、いいかなって」
それ以上は聞かれなかった。
朔也は再び本に視線を落とす。
朱里は問題集を開き、うーん、と唸った。
ふと、隣でページをめくる音が止まる。
「……そこ、違う」
「え?」
「その式。最初から間違ってる」
慌てて覗き込むと、朔也はため息をつき、本を閉じた。
自分のペンで、朱里のノートにすっと線を引く。
「ここ。分数の変形が逆」
「……あ、ほんとだ」
「最初から聞けよ」
「絶対、教えてくれないと思ったし……」
朱里が照れたように笑うと、彼は一瞬だけ視線を止めて逸らした。
「ありがとう、神崎くん」
返事はない。
けれど彼はノートをめくり、もう一問指差す。
「……次。ここもやれよ」
「え?」
「わかるまで。途中でやめても意味ねぇだろ」
朱里は目を丸くしてから、頬を緩めた。
「うん」
空はいつの間にか澄んだ藍色に変わっていた。
遠くで電車の音が小さく響く。
「今日、進路希望調査票配られたね」
朔也は空を見たまま短く返した。
「……ああ」
「私『未定』にした」
「ふーん」
「決めきれないんだもん。進学しなきゃとは思ってるけど、何になりたいかも分かんないし」
朱里はちらりと彼を見た。
「神崎くんは?将来のこと、考えてるの?」
「まあ……なるようにしかならねえだろ」
「それ、答えになってないよ」
「……本当はさ」
朔也の声が、風にまぎれて少し低くなる。
「小さい頃、パイロットになりたかった。飛行機じゃなくて、戦闘機。空を飛ぶやつ」
「へえ」
「でも、俺には無理だって気づいた。金もねえし。……夢なんて、現実に潰されるためにある」
それ以上、朱里は何も言わなかった。
そう言えば、春頃に友達が、彼が母子家庭で大変だと言っていたのを思い出す。
確かに彼は、誰とも関わらず、常にひとり。
塾にも通っていない。参考書はボロボロになっていたし、筆箱だってあまり綺麗とは言えなかった。
(だからって、かわいそうとか、同情したいわけじゃない)
でもそれを知ってしまった今、彼の横顔が、どこかいつもより遠く見えた。
風に吹かれても、まるで動じないその横顔。だけどもしかしたら、彼はずっと何かを一人で背負っていたのかもしれない。
「だから俺は、誰にも期待しねえ。夢も見ねえ。……そっちのが楽だろ」
「……神崎くん、強いね」
「は?」
「全部、自分で抱えてるんだなって思って」
朔也は何も返さなかった。
代わりに風が吹いた。朱里の髪が彼の肩に触れる。
「ねえ」
朱里が、少しだけ身体を寄せる。
「私、たぶん神崎くんが思ってるよりもずっと、ちゃんと神崎くんのこと見てると思う」
「……やめろ」
「なんで?」
「おまえが、わかんねえこと言うと……調子狂う」
朱里は小さく笑った。
何度言っても朔也は朱里を『おまえ』と呼ぶ。朱里は半ば諦めていた。
「じゃあ、また明日言うね」
「……バカか」
ぽつりとこぼれた朔也の声に、朱里は空を見上げた。夕闇が、ふたりの距離をそっと包んでいく。
斜め後ろから吹きつける風に、頬が少し冷たい。
朱里は制服のまま、ブレザーを膝にかけて座り直した。
「……ねえ、うちの親さ、けっこう厳しくてさ」
朔也はちらりともこちらを見ない。
朱里は続ける。
「塾も週3で入れられてるし、成績落としたらスマホも取り上げられるの。お兄ちゃんがさ、優秀で。進学校行って、東大目指してる。親にとっては、兄が理想なんだろうなって、なんとなくわかるけど……」
風の音が間を埋める。
「そう思うと、私って何なんだろって、たまに思うんだよね。兄みたいに期待されても困るし、かといって何にも期待されなくてもムカつくし……」
朔也はようやく「ふーん」とだけ言った。それだけなのに、朱里は少しだけ、胸が軽くなった気がした。
「……なんか、ごめん。勝手にしゃべっちゃって」
「……別に」
「神崎くんは、親とうまくいってる?」
「……別に」
「そっか、“別に”か」
朱里は苦笑して空を仰いだ。
──本当にお母さんとふたりなの?
──……ずっと一人で、寂しくなかったの?
でも、それを口に出した瞬間、この“放課後の距離”が壊れてしまう気がして。
朱里は無理に明るく話題を変えた。
「そうだ!山根先生、昨日また熱血してたよ。佐久間くんに“人生とはな!”って語りだして、佐久間くん、目が泳いでた」
「……あいつ、アホだな」
ふ、と朔也の口角がほんの少しだけ上がる。
(……よかった)
朱里の胸の奥が、やわらかくほどける。
「ねえ、神崎くん」
「……ん?」
「今日も空キレイだね。風、気持ちいい」
「……ああ」
それだけの会話。
でも、彼の隣に立つこの場所が、誰にも邪魔されない小さな秘密基地のように思えた。
もしかしたら、彼も少しだけそう思っていてくれたら──
「……私、将来のこととか、全然見えてこないけど。とりあえず、今こうやって誰かに話せる時間があるだけで、ちょっと救われる」
風が吹いた。
空が茜色に染まり始めている。
「……そろそろ帰ろっか」
立ち上がる朱里に、朔也は「おう」とだけ言って、彼女の数歩後ろをついて歩いた。
ふたりの影が、夕陽に伸びていた。
朱里は何気ない顔で、まだ言葉にできない“特別な想い”を、胸の奥に静かにしまった。