もう一度、好きになってもいいですか?

わたしの傷

その日の夜。

夕飯を終えた食卓に、お母さんの楽しそうな鼻歌が響いていた。
テーブルの上にはワインのグラスが一つ。
お母さんは頬を赤らめながら、携帯をいじっている。


「ねぇ美咲。今度の日曜、私ちょっと出かけるから」

「……誰と?」


自然と問い返すと、お母さんは口に含んだワインを喉に通し、にやりと笑った。

「前に話した人よ!
すごく優しくてね、きっと今回はうまくいくと思うの」


(……また、それ?)


心の奥で小さくため息が落ちた。
お母さんが私の知らない誰かと出かけるのは、これで何度目だろう。

「今度こそ」って言葉は、もう聞き飽きるくらい繰り返されてきた。 

でも結末はいつも同じ。
泣き腫らした目で帰ってきて、私の部屋に駆け込むお母さんの姿が頭に浮かぶ。
そして、「わたしには美咲がいる」と抱きつくのだ。


「でもさ、どうせまた……」


気づけば口からこぼれていた。
お母さんの手が止まり、グラスが小さく揺れた。


「……美咲」


その声に顔を上げると、お母さんが私をまっすぐ見ていた。
その瞳には怒りでも悲しみでもなく、ただただ“痛み”がチラついていた。

(しまった…)

「そう、思ってたんだね」

「あ……ち、違うの! 私、そんなつもりじゃ……」

慌てて言葉を探すけど、喉がつまって上手く出てこない。
お母さんは乾いた笑いをこぼした。


「そうよね。
私、毎回同じこと言ってるものね。
『今度こそ』って。でも結局、失敗して、泣きつく先は美咲なんだもの」

「ち、違う! 私、そんなふうに思ってるわけじゃ!」


必死に否定する声も、母さんには届いていないようだった。


「頼りない母親でごめんね。
 美咲に心配かけて、支えられてばっかりで」


その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと痛くなった。
違うのに。そうじゃないのに。
私はただ、お母さんに見てもらいたいだけなのに。

でも、「また泣いて帰ってくるんでしょ」と心のどこかで思っている自分が確かにいる。

お母さんはグラスを片づけて、静かに部屋を出ていった。

残された食卓には、ぬるくなったシチューと、お母さんの笑顔の余韻だけが漂っていた。


(……どうして、こうなるんだろう)


両手で顔を覆った。

お母さんみたいに泣きたくない。
でも、お母さんみたいに恋をするのも怖い。

気づけば、スマホを手に取っていた。
画面に浮かぶのは「aoiblue._.07」の文字。碧の名前。

震える指でメッセージ欄を開く。
何度も書いては消して、結局残ったのは——。

____

saki._.days
私、恋が怖い。

 ̄ ̄ ̄ ̄
送信を押した瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

すぐに「既読」の文字がつく。
でも、返事は来ない。

部屋の中が急に広く感じて、息が苦しくなる。
ベッドに倒れ込んで、スマホを胸に抱きしめた。

(碧になら、言ってもいい気がしたのにな……)

そう思った途端、涙がにじんできた。
その生ぬるい涙は、私の頬をつたって枕に染み込む。

お母さんの背中と、碧の沈黙が、胸の奥で重なって、鉛のように沈んでいった。

私の心は渇いたまま。
< 16 / 23 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop