社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 友梨は、
 どうしても、
 もう一度あの人に会いたかった。

 青山通りを走る車列の中で、
 ふと、黒い車が視界を横切る。
  ――ベントレー。

  「……え?」

 助手席の窓越しに見えた横顔が、
 一瞬だけ、
 あの夜の清掃員と重なった。
 (そんなはず、ないのに)

 そう思った瞬間、
 車は角を曲がり、視界から消えた。

 それから、
 何日も。
 仕事帰りに遠回りをして、
 あの辺りを歩いて、
 それでも会えなくて。

 ――そして、ある夜。

 街灯の下で、
 箒を持つ後ろ姿を見つけた瞬間、
 胸が、強く鳴った。

 「……一ノ瀬さん」

 振り返った彼の顔は、
 間違いなく、あの人だった。

 「……どうしたんですか」

 驚いたように言う一ノ瀬の腕を、
 友梨は、半ば強引に掴んだ。

 「話があります。今すぐ」

 有無を言わせない口調だった。
 近くのバーに入ると、
 一ノ瀬は短く視線を送る。

 それを受け取ったマサトが、
 何も言わずに席を外した。

 二人きり。
 グラスが進むにつれて、
 友梨の言葉は、次第に止まらなくなる。

 仕事のこと。
 父親のこと。
 結婚のこと。
 直樹のこと。

 「……逃げたいんです」

 ぽつりと落ちた声。

 「全部、
  決められたレールみたいで」

 一ノ瀬は、黙って聞いていた。

 「私、あの夜から……」

 言葉が、続かない。
 酔いと感情が、
 境目を溶かしていく。

 「帰りましょう」

 一ノ瀬が立ち上がる。

 「……送ります」

 酔いが回った友梨は、
 歩調も定まらず、言葉も曖昧だった。

 一ノ瀬は迷わず、
 最寄りの一流ホテルへ向かう。

 スウィートルームの扉が閉まると、
 彼は友梨をそっと抱え、
 ベッドに寝かせた。

 靴を脱がせ、
 ブランケットをかける。

 「……今夜はゆっくり休んで」

 それ以上、触れない。
 ノ瀬は、
 静かに立ち上がり、
 ジャケットを手に取った。
 そのとき。

  「……まって」

 かすれた声。
 ベッドの上で、
 友梨が、必死に指先を伸ばしていた。
 
  「……帰らないで」

 一ノ瀬は、
 一瞬だけ目を伏せる。

  「今は、かなり酔ってます」

  「……ちがう」

 友梨は、
 ゆっくりと身体を起こした。
 視線が合う。
 涙はない。
 でも、逃げ場のない真剣さがあった。

 「私、ちゃんと分かってる」

 一歩、
 一ノ瀬に近づく。

 「誰かと結婚するかも、……」
    
 それでも、と続けて。

 「それでも……
  今、行かれるほうが、つらい」

 一ノ瀬は、言葉を失った。

  「お願い」

 震える声。

  「今日は、一人にしないで」

 沈黙が落ちる。
 長い、長い数秒。
 やがて、一ノ瀬は、
 ゆっくりとジャケットを置いた。

  「……後悔しますよ」

  「します」

 即答だった。

  「でも――
   選びたいのは、私」

 一ノ瀬は、
 深く息を吸い、吐く。

 そして、
 ベッドの縁に腰を下ろした。
 その距離が、
 もう答えだった。
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