社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 朝の光で、ゆっくりと目が覚めた。

 見慣れない天井。
 広すぎるベッド。

 そして――隣に、人はいなかった。
 (……一ノ瀬さん)

 シーツに残る、かすかな温もりだけが、
 昨夜が夢じゃなかったことを教えてくれる。

 時計を見る。
 まだ朝は早い。
 身体を起こした瞬間、
 胸の奥に、小さな不安が落ちた。

 ――やっぱり、帰ったんだ。

 そのとき。
 コン、コン。

 控えめなノック音。

 「……友梨さん」

 聞き慣れた声に、息を呑む。

 「澪……?」

 急いでバスローブに袖を通し、
 そっとドアを開けると、
 そこに立っていたのは、秘書の澪だった。

 きちんと整えたスーツ。
 そして、腕には紙袋がいくつも下がっている。

 「一ノ瀬さんに頼まれてきました」

 澪は淡々とそう言って、
 紙袋を差し出した。

 「着替え一式と、化粧品。
  あと、最低限の身の回りのものです」

 「……え?」

 言葉が、追いつかない。

 「今朝早く、連絡がありました。
  “起きたら、驚かせないように”って」

 澪の口調は冷静なのに、
 その一言が、胸の奥に静かに沁みた。

 「……一ノ瀬さんは?」

 「もう出られました。
   “仕事があるから”と」

 それだけ。
 理由も、言い訳もない。

 澪は一拍置いて、
 ふっと視線を落とす。

 「……昨夜のこと、
   詳しくは聞いていません」

 でも、と続けて。

 「一ノ瀬さん、
  ずっと友梨さんのことを
     気にしていました」

 友梨は、紙袋を抱えたまま立ち尽くす。
 (気にして……いた?)

  清掃員。
  レストランでの違和感。
  ベントレー。
  ホテルのスウィート。

 点と点が、
 今になって、ざわざわと繋がりはじめる。

 「澪……」
 「はい」

 「……一ノ瀬さんって、
  いったい、何者なの?」

 澪は一瞬、言葉を選ぶように黙った。
 それから、いつもの秘書の顔に戻って言う。

 「――それは、
  ご本人から聞くべきだと思います」

 その答えが、
 逆に、すべてを物語っていた。

 友梨は、
 手にした紙袋の重さを確かめながら、
 胸の奥に広がる困惑と、
 言いようのない期待を、同時に感じていた。
 (……もう、後戻りできない)

 そんな予感だけが、
 朝の静かな部屋に、はっきりと残っていた。
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