社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 友梨は、膝の上で握りしめた手に、
 力を込めた。

 「……嘘でも、いいんです」

 一ノ瀬は、何も言わずに聞いている。

 「形だけでも。婚約してください」

 声が、震えた。

 「どうしても……
  直樹さんとは、結婚したくないんです」

 自分でも驚くほど、必死だった。
 言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。

 「私……
  このまま流されて決められるのが、
  耐えられなくて」

 一ノ瀬は、視線を逸らさない。
 遮らない。
 否定しない。
 ただ、静かに受け止める。

 しばらくの沈黙のあと、
 一ノ瀬が、短く息を吐いた。

  「……わかりました」

 それだけだった。

 「え……?」

 「婚約、ではなく」

 一ノ瀬は立ち上がる。

 「結婚、しましょう」

 言葉の意味が、
 すぐには理解できなかった。

 ホテルの外に出ると、
 あの黒いベントレーが、静かに停まっていた。

 後部座席のドアを開けたのは、
 あの大柄な男――マサトだった。

 「どうぞ。
  よろしくお願いします」

 深く、礼をする。
 友梨は、完全に状況を飲み込めないまま、
 一ノ瀬と並んで車に乗り込んだ。

 車内は、驚くほど静かだった。

 「……どこへ?」

 一ノ瀬は、前を向いたまま言う。

 「区役所です」

 心臓が、強く打った。

 手続きは、淡々と進んだ。
 書類。
 印鑑。
 確認。

 一ノ瀬は迷いなく、婚姻届に名前を書き、
 ペンを、友梨の前に差し出した。

 「……どうぞ」

 一瞬、世界が遠のいた。
 (本当に……?)

 でも、不思議と怖くはなかった。
 この人は、
 逃げ道としてじゃなく、
 ちゃんと「引き受ける覚悟」でここにいる。

 そう、感じられたから。

 「……どうにでも、なれ」

 小さく呟いて、
 友梨は名前を書いた。

 その瞬間、
 二人は――入籍した。

 区役所を出たところで、
 マサトが小さな箱を差し出した。

 「社長」

 一ノ瀬は、それを受け取り、
 友梨の前で、静かに蓋を開ける。

 中に収まっていたのは、
 誰が見てもわかるほど、上質な指輪。

 ――ハリー・ウィンストン。

 息を呑む友梨に、
 一ノ瀬は、少しだけ照れたように言った。

 「遅くなりましたが」

  そっと、指輪を差し出す。

 「友梨さん、結婚してください」

 今さらだったはずの言葉が、
 なぜか、胸の奥に深く響いた。

 友梨は、何も言えず、
 ただ、ゆっくりと頷いた。

 その指に、
 新しい光が、確かに宿った。
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