社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 夜の道路を、ベントレーが静かに滑っていく。

 車内には、低いエンジン音だけが満ちていた。

 ハンドルを握るマサトが、
 フロントミラー越しに一度だけ視線を送る。

 「……よろしかったんですか」

 慎重な声だった。

 「社長は、独身主義だと思っていました」

 一ノ瀬は、窓の外に流れる街灯を眺めたまま、
 少しだけ間を置く。

 「俺も、そう思ってた」

 短く笑う。

 「でもな」

 指先でネクタイを緩めながら、続けた。

 「気づいたら――好きになってた」


 「守りたい、って思ったんだ」

 それは、言い訳でも決意表明でもなく、
 ただの事実みたいな口調だった。

 「……それだけで、十分だろ」

 ミラー越しに見えた一ノ瀬の表情は、
 いつもの社長の顔じゃなかった。

 少しだけ柔らかくて、
 どこか楽しそうで。
 マサトは、静かに前を向き直る。

 「承知しました」

 それ以上、聞くことはなかった。
 この人がそう言うなら、
 もう答えは決まっている。
 車は、夜の東京へ溶けていった。
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