社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 朝のニュースが、
 いつもより少し大きな音で流れていた。

 『――本日未明、都内の繊維工場に対し、
  労働安全衛生法違反の疑いで、
  関係機関が家宅捜索に入りました』

 何気なくカップを持っていた手が、止まる。

  「……え?」

 画面に映ったのは、
 見覚えのある工場の外観だった。
 父の会社。
 三条家が、長年守ってきた現場。

  『なお、この工場を運営する
   三条グループ代表の三条勝氏についても、
   事情聴取が行われているとの情報です』

 胸の奥が、急に冷える。

 「……そんな」

 友梨は、慌ててスマートフォンを掴んだ。
 指が震えて、
 父の番号を押し間違えそうになる。

 ——呼び出し音。
 ——出ない。

 もう一度。
 それでも、繋がらない。

 (どうして……?
  昨日まで、何も言ってなかったのに)

 三度目で、ようやく通話が繋がった。

 『……友梨か』

 父の声は、ひどく疲れていた。

 「お父さん!
  ニュース見たの?
   工場が……!」

 『……俺もな』

 低く、かすれた声。

 『何がどうなっているのか、
  正直、まったく見当もつかん』

 「そんな……
  何か、心当たりは?」

 『ない』

 即答だった。

 『安全管理も、書類も、
  きちんとやってきた』

 一瞬、言葉が途切れる。

 『……だが』

 父は、短く息を吐いた。

 『向こうは、
  もう“話を聞く段階”じゃないらしい』

 その言葉の意味を、
 友梨は理解したくなかった。

 「お父さん……?」

 だが、その直後だった。
 電話の向こうで、
 別の男の声が聞こえる。

 『三条勝さん。
  この件について、
  正式に身柄をお預かりします』

 「……え?」

 『ちょっと待ってください!』

 父の声が、強くなる。

 『弁護士を――』

 その途中で、
 通話は一方的に切れた。

 「……そんな」

 スマートフォンが、
 手の中で重くなる。

 どうして。
 どうして、こんなことに。

 頭では追いつかないのに、
 現実だけが、
 容赦なく進んでいく。

 会社に着くと、
 社内の空気は、明らかに違っていた。

 「……社長の工場、捜索だって」
 「ニュース見た?」
 「大丈夫なのかしら……」

 ひそひそとした声が、
 廊下のあちこちで交わされている。

 友梨が通ると、
 皆、言葉を飲み込む。
 心配そうな視線だけが、残る。

 (……私が、しっかりしなきゃ)

 そう思うのに、
 足元が、どこかふわふわしていた。

 執務室に入ると、
 秘書の澪が、すでに動いていた。

 「友梨さん」

 いつもと変わらない声。
 だが、机の上には、
 複数の資料とタブレットが並んでいる。

 「状況は、把握しました」

 「澪……
  お父さんが……」

 「はい」

 澪は、静かに頷く。

 「すでに、
  捜査の名目と告発内容を洗っています」

 「告発……?」

 「匿名です」

 きっぱりと言う。

 「安全管理に重大な不備がある、
  という内容」

 友梨は、唇を噛んだ。

 「……そんなはず、ない」

 「私も、そう思います」

 澪の視線は、揺がない。

 「だからこそ、
  誰が、何のためにやったのか。
  そこを調べます」

 その言葉に、
 少しだけ呼吸が楽になる。

 「お願いします」

 「もちろんです」

 澪は、すでにキーボードを
 叩き始めていた。

 その頃。

 高層ビルの一室で、
 一ノ瀬は、
 タブレットに映るニュースを
 見つめていた。

 画面に流れる文字。
 三条。
 繊維工場。
 家宅捜索。

 「……来たか」

 低く、呟く。

 背後に立つマサトが、
 即座に反応した。

 「社長。
  例の件ですね」

 「ああ」

 一ノ瀬は、画面を消す。

 「マサト」
 「はい」

 「この捜査の裏。
  告発元、
  政治筋との繋がり。
  全部、洗ってこい」

 一切の迷いがない指示だった。

 「三条社長の逮捕まで行くとなると、
  かなり強引です」

 マサトは、即座に理解する。

 「だからだ」

 一ノ瀬の声は、冷えていた。

 「偶然じゃない」

 一拍、間を置いて。

 「……友梨さんは?」

 「まだ、詳細は知らないはずです」

 「そうか」

 それだけ言って、
 一ノ瀬は窓の外に目を向けた。
 (……これは)

 ただの不祥事じゃない。
 誰かが、
 意図的に壊しに来ている。

 そして――
 その中心にいるのは、
 あの男だ。

 「急げ」

 短く命じる。
 
 「必ず、
  “誰が糸を引いているか”
  突き止めろ」

 「承知しました」

 マサトは、静かに部屋を出た。

 残された一ノ瀬は、
 しばらく動かなかった。

 友梨の、
 困惑した顔が、
 脳裏に浮かぶ。

 「……放っておけない、な」

 それはもう、
 独り言ではなかった。
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