社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 エレベーターを降りた瞬間、
 友梨は、思わず息を呑んだ。

 広い廊下。
 足元一面に、
 赤い絨毯が敷き詰められている。
 
 (……なに、ここ)

 照明は落ち着いているのに、
 空気だけが、張りつめている。
 まるで、
 現実から切り離された
 異空間みたいだった。

 その奥に――
 ひときわ大きな扉がある。

 重厚な木製のドア。
 中央に、控えめな金文字。

 《 社 長 室 》

 「……」

 友梨の喉が、無意識に鳴った。

 (え、
  社長室……?)

 もしかして、
 今日はこの会社の“社長”に
 挨拶に来た、ということ?

 (やっぱり、
  ちゃんとした場だったんだ…)

 急に、背筋が伸びる。

 (失礼のないようにしなきゃ)
 (名刺……持ってきてたっけ)

 そんなことを考えている間に、
 マサトが、一歩前へ出た。

 コン、コン。

 控えめで、
 それでも迷いのないノック。

 「……お連れしました」

 その一言で、
 友梨の心臓が、どくんと跳ねた。

 (お連れしました、って……)

 手のひらが、じっとり汗ばむ。

 (落ち着いて。大丈夫。
  挨拶するだけ)

 ドアが、静かに開いた。

 中は、
 想像以上に広かった。

 大きなデスク。
 壁一面の窓。
 その向こうに、
 南青山の街並みが広がっている。

 そして――
 窓際に、ひとり。

 背を向けて立つ、若い男性。

 (……若い)

 一瞬、
 それが率直な感想だった。

 (この人が……
  一ノ瀬さんの会社の社長?)

 思っていたより、
 ずっと若い。

 (でも、
  雰囲気はある)

 空気を支配する、
 静かな存在感。

 (ちゃんと、挨拶しなきゃ)

 友梨は、
 一歩前に出た。

 「三条友梨です」

 精一杯、落ち着いた声。

 「本日は、
  お時間をいただき、
  ありがとうございます」

 そう言った、その瞬間。

 窓際の男が、
 小さく、息を吐いた。

 「……違うね」

 ぼそっとした声。

 (え?)

 次の瞬間、
 男が、ゆっくりと振り返る。

 見慣れた顔。

 忘れるはずのない、
 あの目。

 「一ノ瀬友梨、だろ」

 淡々と。
 当たり前みたいに。

 「……俺の妻なんだから」

 時間が、止まった。

 (……え?)

 世界が、
 一拍、遅れて動き出す。

 (え?
  いま、
  なんて……?)

 視界の中心で、
 “一ノ瀬さん”が、
 社長席の前に立っていた。

 社長室で。
 社長として。

 友梨は、
 言葉を失ったまま、
 ただ立ち尽くしていた。

 ——すべての違和感が、
 一気に、
 繋がった瞬間だった。
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