社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした

13.奪われなかった未来

 しかし、世の中の反応は違っていた。 
 
 ニュースは消えない。
 切り取られた見出しは残る。

 取引先は更に慎重になり、受注は止まり、
 数字は露骨に落ちた。
 更に風評は、想像以上に深く
 会社の足を引っ張る。

 株価が大きく崩れた。
 まるで、狙い撃ちみたいに。

 その裏で、直樹は静かに動いていた。
 表では同情を装いながら、
 水面下では三条の株を買い進めていく。

 「……やることが汚い」

 一ノ瀬はモニターのチャートを見つめたまま、
 低く呟いた。
 

 その頃の直樹は、
 都内のクラブで浮かれていた。
 豪奢な部屋。
 甘い酒。
 軽薄な笑い声。

 「先生、もう少しで、
  全部こっちのものになります」

 そんな言葉を、何の警戒もなく口にする。
 金の話をしながら、
 “工場を売って海外へ”という筋書きを、
 当たり前のように語った。

 ——香港。
 ——売却。
 ——百億。
 


 その軽さが、逆に決定打になった。

 マサトと澪が拾い上げた断片は、
 一本の線につながる。

 中心人物は、直樹。
 その周辺に、政治家の影。

 告発の経路も、メディアの火の付き方も、
 すべてが意図的すぎた。

 一ノ瀬は、判断を迷わなかった。

 「ホワイトナイトとして入る」

 三条の株を、必要なだけ確保する。
 増資を打ち、買い占めを押さえ込む。

 市場に“これ以上は無理だ”という
 壁を立てる。

 三条の会社が、倒れないように。
 奪われないように。

 そして、仕掛けた側の綻びは、
 思ったより早く表に出た。

 国会議員・斎藤は、
 選挙絡みの買収で辞職。

 逃げ道を塞がれ、
 守ってくれる背中が消えた瞬間、
 周辺の関係者は蜘蛛の子を散らすように
 離れていく。

 直樹は焦った。
 だが、もう遅い。

 上条財閥は、
 今回の騒動を「汚点」と見なした。

 直樹は“家”からも切られ、
 事実上の追放。
 頼れる名刺が一枚ずつ、
 音を立てて剥がれていく。

 最後に残ったのは——
 自分の欲と、浅い計算だけだった。

 すべて、終わった。

 一ノ瀬は、
 デスクに置いたスマートフォンを手に取った。

 画面に表示された名前を見て、
 一瞬だけ、視線を落とす。

 ——原田。

 通話ボタンを押す。

 『もしもし』

 受話口から、落ち着いた声。

 「原田先生」

 一ノ瀬は、簡潔に言った。

 「今回は、ありがとうございました」

 『いや』

 原田は、軽く笑う。

 『私は、
  “余計なことをしなかった”だけだよ』

 「それでも、です」

 一ノ瀬は、余計な言葉を足さない。

 「助かりました」

 短い沈黙。

 『……三条の件』

 原田が、少しだけ声を落とす。

 『きれいに収まったな』

 「ええ」
 「おかげさまで」

 『そう言われると、
  こちらも安心する』

 原田は、そこで話題を切り替えた。

 『それで』
 『君は、
  これからどう動く?』

 一ノ瀬は、窓の外に視線を向ける。

 青山の空。
 澄んでいる。

 「三条の会社を、立て直します」
 「それと——」

 一拍置いて、

 「家族を、守ります」

 原田は、
 ふっと息を吐いた。

 『……君らしい』
 『何かあれば、
  また連絡しなさい』

 「はい」

 一ノ瀬は、短く答えた。

 「その時は、
  ご相談させて頂きます」

 通話が切れる。

 一ノ瀬は、
 スマートフォンを伏せ、
 静かに息を吐いた。

 (……これでいい)

 そして、
 マサトに視線を向ける。

 「二人を通してくれ」

 一ノ瀬の社長室に、
 友梨と父・勝が呼ばれた。

 窓の外は青山の空。
 静かで、眩しい。

 勝は、部屋に入った瞬間から
 落ち着かなかった。
 ここがどんな場所か、理解している。
 そして、
 自分がどれだけ視野を狭くしていたかも。

 一ノ瀬の前で、勝は深く頭を下げた。

  「……君のことを、
   だいぶ勘違いしていた」

 声は固いが、逃げない。

 「娘を守るつもりで、
  私は娘を追い詰めていた」

 一拍置いて、続ける。

 「今回の件も……
  本当に、ありがとう」

 友梨も、そっと頭を下げた。

 「……お父さんが無事でよかった」
 「それだけで、よかったの」

 勝は、娘のその一言に、目を伏せた。

 一ノ瀬は、派手な言葉を言わない。
 ただ、淡々と告げる。

 「三条社長の潔白は守れました」
 「会社も、奪わせません」

 そして、友梨を見る。

 「君も」
 「もう、誰にも奪わせない」

 友梨の胸の奥が、じんと熱くなる。
 ここまで来て、ようやく実感が追いつく。

 (……私、結婚したんだ)
 (この人と)

 澪が、少し離れた場所で静かに頷いた。
 “盾”は役目を果たした、と言うように。

 勝は、もう一度頭を下げた。

 「……友梨」
 「お前が選んだ相手が、
  この人で、本当によかった」

 友梨は、ほんの少しだけ笑った。
 涙は出なかった。
 でも、喉の奥が詰まる。

 一ノ瀬が、短く言う。

 「ここで終わりじゃありません」
 「会社を立て直します
    協力させてください」

 勝が、顔を上げる。

 「……私も、やるべきことがあるな」

 友梨は、二人の間に立つのではなく、
 二人と並ぶ位置に、そっと立った。

 守られるだけじゃない。
 でも、戦うと決めたわけでもない。

 ただ——

 「一緒に、戻しましょう」

 その言葉が、自然に出た。

 一ノ瀬が、静かに笑う。

 「うん」
 「それでいい」

 南青山の空は、晴れていた。
 予定通りじゃない人生が、
 ようやく、ちゃんと“自分のもの”になっていく。

 ——ここから先は、幸せにしていい。
 そう思える終わり方だった。
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