社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
2.運命の再会
翌日も、友梨は会議で遅くなった。
新作ラインの最終確認。
役員の意見調整。
想定外の修正案。
時計を見たときには、
もう外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、タクシーで帰りましょう」
秘書の澪が、迷いなくそう言った。
昨日の件があってから、
彼女は少しだけ過敏になっている。
「そうだね。お願い」
ビルの正面でタクシーに乗り込む。
後部座席に身を沈めた瞬間、
ふっと緊張がほどけた。
(昨日みたいなこと、
もう起きませんように)
そう思いながら、
何気なく窓の外に視線を流す。
——そのときだった。
歩道の端で、
見覚えのある姿が目に入る。
清掃員の作業着。
ほうきとちりとり。
昨日と同じ、少し猫背の後ろ姿。
(……え)
心臓が、きゅっと鳴った。
「……止めてください」
運転手にそう告げてから、
友梨は迷うように澪のほうを見る。
「高橋、タクシー、少し待ってて」
「え? 友梨さん?」
「すぐ戻るから」
澪が何か言いかけるのを制して、
友梨はドアを開けた。
冷たい夜風が頬に当たる。
「……あの」
声をかけると、
清掃員の男が、ゆっくり振り返った。
「あぁ」
昨日の人だった。
「昨日は……
危ないところ、
ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「いえ。大したことしてませんから」
相変わらず、気負いのない言い方。
一瞬、沈黙が落ちる。
何を続ければいいのかわからなくて、
友梨は少しだけ視線を泳がせた。
「……夕飯、もう食べました?」
口をついて出た言葉に、
自分でも少し驚く。
「あ、いや。まだですけど」
「だったら……」
梨は、
指先で通りの向こうを示した。
「昨日のお礼に、
あそこで一緒に食事しませんか?」
そこにあるのは、
青山では名の知れた、
落ち着いた雰囲気のレストラン。
一ノ瀬は一瞬、
言葉を失ったように目を瞬かせた。
「いや……さすがに、こんな店は」
作業着を見下ろして、苦笑する。
「いいですから」
間髪入れずに、友梨は言った。
「お礼、ちゃんとしたいんです」
その声音は、仕事のときと同じくらい
迷いがなくて。
一ノ瀬は、
ほんの少しだけ困った顔をしたあと、
肩をすくめた。
「……じゃあ、ごちそうになります」
友梨は、ほっと息をついた。
タクシーのほうを見ると、
澪が目を見開いたまま、
こちらを見ている。
「高橋、少し遅くなります。
先に戻ってて」
スマホで短くメッセージを送る。
(……私、何してるんだろ)
そう思いながらも、
胸の奥には、不思議な高揚があった。
昨日の夜、
名前も知らないまま助けられた相手。
その人と、
今こうして並んで歩いている。
レストランのドアを開けた瞬間、
中から落ち着いた光と、
静かなざわめきが流れ出す。
そして——
店内に入った途端、
オーナーらしき男性が、
はっと表情を変えた。
「……あっ」
一ノ瀬のほうを見て、
「一ノ瀬さ——」と言いかける。
その瞬間。
一ノ瀬は、
ほんの一瞬だけ視線を向け、
“やめて”とでも言うように、
静かに目で合図した。
オーナーは、言葉を飲み込み、
代わりに深く頭を下げる。
「……いらっしゃいませ」
友梨は、
その様子を見逃さなかった。
(……今の、なに?)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
けれど、
一ノ瀬は何事もなかったように、
席へと案内されるのを待っている。
「……お知り合いですか?」
思わず、そう尋ねると、
「いえ。たぶん、人違いですよ」
そう言って、一ノ瀬は笑った。
その笑顔が、
昨日の路地裏よりも、
少しだけ遠く感じられて。
——友梨は、まだ知らない。
この“違和感”こそが、
自分の人生を大きく動かす
入口になることを。
新作ラインの最終確認。
役員の意見調整。
想定外の修正案。
時計を見たときには、
もう外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、タクシーで帰りましょう」
秘書の澪が、迷いなくそう言った。
昨日の件があってから、
彼女は少しだけ過敏になっている。
「そうだね。お願い」
ビルの正面でタクシーに乗り込む。
後部座席に身を沈めた瞬間、
ふっと緊張がほどけた。
(昨日みたいなこと、
もう起きませんように)
そう思いながら、
何気なく窓の外に視線を流す。
——そのときだった。
歩道の端で、
見覚えのある姿が目に入る。
清掃員の作業着。
ほうきとちりとり。
昨日と同じ、少し猫背の後ろ姿。
(……え)
心臓が、きゅっと鳴った。
「……止めてください」
運転手にそう告げてから、
友梨は迷うように澪のほうを見る。
「高橋、タクシー、少し待ってて」
「え? 友梨さん?」
「すぐ戻るから」
澪が何か言いかけるのを制して、
友梨はドアを開けた。
冷たい夜風が頬に当たる。
「……あの」
声をかけると、
清掃員の男が、ゆっくり振り返った。
「あぁ」
昨日の人だった。
「昨日は……
危ないところ、
ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「いえ。大したことしてませんから」
相変わらず、気負いのない言い方。
一瞬、沈黙が落ちる。
何を続ければいいのかわからなくて、
友梨は少しだけ視線を泳がせた。
「……夕飯、もう食べました?」
口をついて出た言葉に、
自分でも少し驚く。
「あ、いや。まだですけど」
「だったら……」
梨は、
指先で通りの向こうを示した。
「昨日のお礼に、
あそこで一緒に食事しませんか?」
そこにあるのは、
青山では名の知れた、
落ち着いた雰囲気のレストラン。
一ノ瀬は一瞬、
言葉を失ったように目を瞬かせた。
「いや……さすがに、こんな店は」
作業着を見下ろして、苦笑する。
「いいですから」
間髪入れずに、友梨は言った。
「お礼、ちゃんとしたいんです」
その声音は、仕事のときと同じくらい
迷いがなくて。
一ノ瀬は、
ほんの少しだけ困った顔をしたあと、
肩をすくめた。
「……じゃあ、ごちそうになります」
友梨は、ほっと息をついた。
タクシーのほうを見ると、
澪が目を見開いたまま、
こちらを見ている。
「高橋、少し遅くなります。
先に戻ってて」
スマホで短くメッセージを送る。
(……私、何してるんだろ)
そう思いながらも、
胸の奥には、不思議な高揚があった。
昨日の夜、
名前も知らないまま助けられた相手。
その人と、
今こうして並んで歩いている。
レストランのドアを開けた瞬間、
中から落ち着いた光と、
静かなざわめきが流れ出す。
そして——
店内に入った途端、
オーナーらしき男性が、
はっと表情を変えた。
「……あっ」
一ノ瀬のほうを見て、
「一ノ瀬さ——」と言いかける。
その瞬間。
一ノ瀬は、
ほんの一瞬だけ視線を向け、
“やめて”とでも言うように、
静かに目で合図した。
オーナーは、言葉を飲み込み、
代わりに深く頭を下げる。
「……いらっしゃいませ」
友梨は、
その様子を見逃さなかった。
(……今の、なに?)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
けれど、
一ノ瀬は何事もなかったように、
席へと案内されるのを待っている。
「……お知り合いですか?」
思わず、そう尋ねると、
「いえ。たぶん、人違いですよ」
そう言って、一ノ瀬は笑った。
その笑顔が、
昨日の路地裏よりも、
少しだけ遠く感じられて。
——友梨は、まだ知らない。
この“違和感”こそが、
自分の人生を大きく動かす
入口になることを。