社長令嬢の私が恋したのは、清掃員でした
 店内は、
 外の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 柔らかな照明と、低く流れる音楽。

 席に案内されると、
 友梨はようやく肩の力を抜いた。

 「……こういうお店、
  よく来るんですか?」
 
 何気なく聞くと、
 一ノ瀬は首を振った。

 「いや、こんなオシャレな、
  お店には来ませんよ。
  普段は、牛丼とか、適当です」

 その言い方が気取っていなくて、
 少しだけ笑ってしまう。

 「私、アパレルブランドで
      働いてるんです」

 料理が運ばれてくるのを待ちながら、
 友梨は話し始めた。

 「マネージャーなんですけど……
  まだ若いので。
  正直、毎日いっぱいいっぱいで」

 「大変そうですね」

 「はい。
  現場も、会議も、調整も。
  社内でも、いろいろ言われますし」

 言葉にした途端、
 胸の奥に溜まっていたものが、
 少しだけ滲み出る。

 一ノ瀬は、遮らずに聞いていた。
 相槌も、余計な同情もない。

 「……私には、
  難しいことはよくわかりませんけど」

 そう前置きしてから、穏やかに言う。

 「一生懸命やってる人の姿って、
  ちゃんと周りは見てると思いますよ」

 その声は、驚くほど静かだった。

 「結果が出る前でも、
  “この人、本気だな”っていうのは
  伝わりますから」

 友梨は、思わず言葉を失った。
 (……そんなふうに言われたの、
   久しぶりかも)

 胸の奥が、ふっと温かくなる。

 「ありがとうございます」

 小さくそう言うと、
 一ノ瀬は少し照れたように
 視線を逸らした。

 「昨日は、新作の撮影だったんです」

 話題を変えるように、友梨は続ける。

 「モデルに、エリカって子を抜擢して。
  新人なんですけど……
  すごく雰囲気があって」

 「それは凄いですね」

 一ノ瀬は、素直にそう言った。

 「見る目があるんだと思います」

 その一言に、胸がすっと軽くなる。
 張りつめていた神経が、
 音もなく緩んでいくのを感じた。
 (……今日、ここに来てよかった)

 昨日の夜の恐怖も、
 今日一日の疲れも、
 この静かな時間の中で、
 少しずつ遠のいていく。

 その日は、
 特別なことは何も起きなかった。
 でも——
 友梨の心には、確かに残るものがあった。
 張りつめたままじゃなくていい。
 弱音を吐いてもいい。
 そう思えた夜だった。
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