浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク
レディ・シスター・ベイビー 終巻
 商店街は、期待と失望が同じ看板にぶら下がっている場所だ。
安売りの赤と、閉店の白が、同じ風に揺れている。
進む人も、戻る人も、立ち止まる人もいる。
俺が山本と出会ったのは、そんな通りだった。
彼女は列に並んでいた。
スマホを胸に抱え、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見ている。精肉店の前まで、あと少し。
揚げ物の油の匂いが強く、呼び込みの声だけがやけに元気な夕方だった。
気づけば俺は立ち止まり、コロッケの値札を見ていた。
山本は財布を出しかけて、やめる。
「今日は、いいです」
それだけ言って、少し笑う。
理由は言わない。
俺は聞かない。
精肉店の奥から、
「今、揚がったよー」
という声がした。
列が一歩進む。
山本は、列から外れた。
「待つの、やめました」
独り言みたいに言った。
それから山本は、俺の顔を覚えた。
通りで会うと、たまに声をかけてくるようになった。
そしていつしか、事務所に遊びに来るようになっていた。
俺は事務所で、話を聞く。
山本は言った。
待つのに、疲れた、と。
久美子が、やわらかな眼差しで珈琲を出す。
スマイルさんには、なかなか会えないらしい。
「どう思います?」
「いつも言ってるけど、おまえがそれでもいいなら、いいんじゃねぇか」
「やなんです、もう」
山本は泣いてはいなかった。
ただ、呼吸が浅かった。
ひとりだけ取り残されたような顔をしていた。
「迷っているのか」
そう訊くと、山本は少し考えてから、首を振った。
言わない、という選択を、
彼女はずっとしてきたのだろう。
話は早かった。
正しく生きてきたこと。
約束を守ってきたこと。
褒められ、安心させられてきたこと。
スマイルさんは優しい。
否定しない。
怒らない。
声を荒げない。
だが、決定的な場面には現れない。
指輪はくれない。
未来の話は、いつも避けられる。
「逢いたいんです」
山本は言った。
「正しくしていれば、いつか、ちゃんとした場所に行けるって、一生懸命生きてきました」
それは嘘じゃない。
だが、話を聞く限り、それだけでは十分でもなかった。
なぜなら、スマイルさんは、山本が寂しさを埋めるために追いかけているアイドルの話を、ただ聞いているだけだったからだ。
ライブ。聖地巡礼。
配信。物販。
イベント。言葉。
誰かを応援することで、自分が保たれる感覚。
消費と熱狂の循環に、静かに身を置かされているようにも見えた。
スマイルさんは、それを、
「楽しそうだね」
と言って眺めているだけだった。
参加しない。
否定もしない。
都合のいい距離で、山本を同じ場所に足止めさせ続けていた。
俺は言った。
「どうしたいんだ。考えを整理したくて、今日はここに来たんだろ。違うか」
「もう、何もかも待てなくて」
山本は言った。
「スマイルさんも、仕事も、スマホも、ライブも……何もかも」
「……臨界点か」
止まらないメリーゴーランドだったな。
いよいよ、降りどきか。
俺は電話をかけた。
「菜々緒。この前の話だ。頼む」
「へい、了解」
この世界と、スマイルさんへの気持ちを整理するため、
俺は菜々緒に、山本をどこかへ連れ出してもらうことにした。
しばらくして事務所に現れた菜々緒を見たとき、
山本の目の奥が、一瞬だけ揺れたように見えた。
俺は菜々緒に声をかけた。
「よろしく頼むぜ」
エキゾーストノート。
身体に、ぐっとくるG。
あとで山本は、
世界を裂くようなエンジン音が身体を貫いているあいだ、不思議と冷静でいられたと言った。
頭を整理できるような、
ちょうどいい贈り物を受け取ったみたいだった、と。
いつしか山本は、
菜々緒の背中にしがみつく力が、静かに抜けていた。
スマイルさんへの不安と、
初めてバイクの後ろに乗った緊張が、
少しずつ、ほどけていく。
ヘルメットの中で、声を上げて泣いていた。
風が涙をさらっていく。
泣いていることさえ分からなくなるのが、
余計につらかった。
スマイルさんの、優しい言葉。
祝福のふりをした距離。
檻の中で与えられた役目。
「考えなくていいよ」
という免罪符。
楽だった。
確かに、楽だった。
その、我慢していたすべての事実が、
山本を、いちばん強く泣かせた。
菜々緒は、何も言わなかった。
湾岸線の安定した区間で、
片手をそっと山本の手に添え、
しばらく、ただ、速度を保ったまま走らせた。
 その後、事務所に残っていた俺に、松雪から連絡が入った。
 立ち寄ってもらう。
「久美ちゃん、ちょっとドライブしてくる」
「いってらっしゃい」
松雪を車に乗せ、走り出す。
「なあ、今日は少し遠回りするか」
理由は言わない。
松雪も聞かない。
そういうやり取りが、
俺たちの間には、もう出来上がっていた。
走り出してしばらくしてから、
松雪の呼吸が乱れた。
俺は気づいたが、何も言わない。
代わりに、窓を少しだけ開け、
やっしゃんのロックなポップスを流した。
少し大きめの音量で、
リズムだけが車内を満たす。
「君は大丈夫だ。君なら分かってくれる」
スマイルのその言葉が、
今になって、重く沈む。
アクセルを踏むたび、喉が鳴り、おえつが漏れた。
「さよ、なら……さよ……」
松雪は声にならない。
生活の中で見る大人の涙は、一滴でも辛い。
今日は、さすがに俺も堪えた。
誰にも見られていない車内で、
松雪は子どもみたいに泣いていた。
 一方、川口は決心を伝えるため、事務所の扉を開けた。
 だが、そこに俺はいなかった。
代わりに久美子がいた。
蒼白な川口の顔を見るなり、
何も聞かずに鍵を閉める。
「走るの、今日はやめましょう」
そう言って、久美子は切符を買った。
行き先は決めていない。
そういうやり方を、彼女は知っていた。
川口も、理由を聞かなかった。
二人は、電車に揺られていた。
湘南新宿ラインの車輪の振動が、体を揺らす。
窓に映る自分の顔が、
知らない女みたいだった。
レースの日に来なかった背中。
ゴール後の不在。
口だけの応援。
伴走しなかった時間。
その一つ一つが、
遅れて痛みになって返ってくる。
久美子が、優しく胸を貸す。
座席で膝を抱え、声を殺すこともできず、川口は泣いた。
理由もなく、子どもが迷子になったときみたいに、泣き続けた。
「信じたかった」
その言葉が、愛しかった時間ごと、何度も胸の中で折れた。
 三人とも、
 それぞれ別の場所で、同じ名前を思っていた。
菜々緒は、山本を後ろに乗せたまま、湾岸へ進路を変えた。
俺のGPSが、明らかに海を指していることに気づいたからだ。
菜々緒は、俺が深く考え込むとき、言葉より先に遠くへ向かう人間だと、もう感覚で分かっていた。
俺は、松雪を助手席に乗せ、横浜新道を進む。
彼女が静かに泣き止むまで、ハンドルを戻すつもりはなかった。
進路を海に取ったのは、逃げ場がそこしかなかったからだ。
 一方、川口は、久美子と電車に揺られていた。
行き先は決めていない。
湘南新宿ラインの振動が、川口の体を規則正しく揺らす。
走っていた頃とは、違う揺れだった。
それぞれが、別々の方法で、
同じ場所に近づいていた。
誰かに呼ばれたわけじゃない。
約束もしていない。
ただ、止まれないまま進んだ先が、
偶然、同じ方向だっただけだ。
海が見えたのは、俺が最初だった。
車を降り、松雪と並んで防波堤のほうを見る。
しばらくして、
バイクのエンジン音が重なった。
菜々緒だった。
山本は、ヘルメットを外しても、すぐには顔を上げなかった。
さらに少し遅れて、
久美子と川口が姿を見せた。
電車を降りてから、少し歩いたのだろう。
川口の足取りは、走るときより遅かった。
だが、止まってはいなかった。
映画みたいだな、と思った。
だが、これは演出じゃない。
それぞれが、
自分の速度で辿り着いただけだ。
三人は、泣き腫れた顔のまま、立ち尽くした。
声も出ず、肩で息をし、
どうしていいか分からず、ただ空を見上げていた。
それぞれの涙は、
スマイルへの憎しみじゃない。
未練でもない。
ただ、
あの蜃気楼が、確かに人生だったことを、
手放す前に抱きしめているだけだ。
飛べない鳥として、
スマイルによって制限されて生きてきた時間が長かった。
空を見上げて、あそこには行けないと、勝手に決めて。
誰かがくれた檻を、安全だと思い込んで。
考えなくていい場所に、居続けた。
海が見えたとき、
三人は立ち尽くした。
泣き顔のまま、肩で息をし、
どうしていいか分からず、ただ空を見た。
それから、三人とも、
海で散々泣いて、叫んだ。
星空が落ち着いたころ、俺は言った。
「ずっと言われてきたんだろ。
考えなくていいって。
……楽だったか?」
返事はない。
風の音だけがある。
「でもな。
空は、最初から閉じてなかった。
考えるのをやめた瞬間、
人は誰でも、自分じゃない何かになる。
今度は、飛べる。
すべてが、ここから始まる。
それだけだ」
三人は声も出なくなり、
ただ海を眺めていた。
菜々緒には礼を言った。
山本のおでこにキスをして、バイクに乗り込む。
「じゃあねぇ」
スピンターンを決め、派手に去っていった。
久美子を助手席に乗せ、
三人を後部座席に座らせて帰る。
バックミラーに映る顔は、
泣き腫れていたが、
不思議と軽かった。
後部座席では、三人とも眠っていて、
それを見た久美子が、マリア様みたいに微笑んでいた。
俺には、もう翼が見えている。
遥か遠くへ進んでいくのを、
願うことだけが俺の役目だ……ろう。
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