極甘CEOと交際0日の仮初結婚 ~一途な彼の、初恋妻になりました~
熊野古道が水彩で描かれた絵はがきには、見慣れたお母さんの字で、熊野三山を訪ねたと書いてあった。リビングのローテーブルに絵はがきを置いて、ダイニングテーブルに料理を運ぶ。手洗いと着替えを済ませて戻ってきた千秋くんが、取り皿やカトラリーを用意してくれた。
テーブルに向かい合って座って、いただきますと手を合わせる。ダークグレーのラウンジセットに着替えた千秋くんは、スーツのときより少しだけあどけない。
陶器の深皿によそったクリームシチューから、ふわふわと湯気が立ち上る。シルバーのスプーンで、ひとくちを運んだ千秋くんは、
「美味しい」
面差しに笑みを広げた。柔らかなその表情を見て、私はほっと安堵する。同時に、何故だか泣きたいような気持ちになった。
胸に込み上げた感慨に戸惑って、視線を揺らめかせて、はっとして千秋くんに返事をする。
「口に合ったなら、良かった」
「ええ、とても」
笑みを深めた千秋くんは、「オムレツとサラダも美味しいです」と言いながら、美しい手つきでカトラリーを動かす。その様子をしばし眺めてから、私もシチューをひとくち運ぶ。――うん、ちゃんと美味しい。
大人になった私たちが一緒に食事を取るのは、まだ三回目。だから、向き合って交わす会話は少しぎこちない。
持て余すような沈黙が数秒。そのあとに、ごく何気ない口調で千秋くんが尋ねた。
「おばさんはお元気ですか」
おばさん――私のお母さん。千秋くんが昔と同じ言葉を使ったことに、何だか少しだけほっとした。
シチューをすくうスプーンを止めてから、答える。
「元気だよ。今は京都に住んでる」
「京都?」
「再婚したの。ええと……6年前。今は、旦那さんと一緒に暮らしてる」
言いながら、熊野古道の絵はがきを思い浮かべる。きっと、旦那さんと一緒に旅行をしたのだろう。長年ひとりで私を育ててくれたお母さんは、素敵なひとと幸せに生きている。
私のためにたくさん頑張ってくれたお母さんが幸せになって、本当によかったと思っている。
だから、やっと幸せになったお母さんに余計な心配をかけたくなかった。だから――隼人と別れてもうすぐ一年になるのに、お母さんに言えないままだった。
ぐっと眉根を寄せたところで、思考が逸れていることに気づいてはっとする。慌てて話題を転換する。
「千秋くんのお母さんは?」
大好きだったおばさんは元気? ――そういう意味合いで、考えなしに尋ねた。千秋くんは、普段通りの穏やかな声で答えた。
「14年前に、心臓の病気で亡くなりました」
――は、と短く息を呑む。
「……ごめん、私、」
視線を揺らして、動揺する。
「謝らないでください。ただ、事実として答えただけです」
千秋くんが、慌てた表情で取り成してくれる。
ひとつまばたきをした彼は、普段と変わらない声で続けた。
「もう昔の話です。どんな感情も、時が流れればだんだん淡くなっていきます」
彼の微笑みには、あの頃の名残。
だけど、わずかに瞼を伏せたその表情に、柔らかなあどけなさは一切なかった。