極甘CEOと交際0日の仮初結婚 ~一途な彼の、初恋妻になりました~
千秋くんは、ご両親の名誉のために今まで必死で頑張ってきたのだろう。あの父親の息子だからあんなこともできない。あの母親の息子だからあんなことをする。
そんな心無い中傷から、ご両親を守るために。
小さく息を呑んだ千秋くんが、顔を伏せた。彼が、顔を見られたくないと思っているのだとわかった。だから、私は正面を向いたまま、彼に声を掛ける。
「じゃあ、私の前では完璧をやめて」
千秋くんからの返事はなかった。それでも、ちゃんと聞いてくれているのはわかっているから、そのまま続ける。
「千秋くんが外で頑張らなきゃいけない事情はわかった。それについて、私は何も言わない。だけど……せめて、私の前では頑張らないで」
そんなことを言いながら、私はどの立場でこんなことを言っているんだろうと思った。
仮初の妻。でも、そんなのは言いようで、実質は単なる同居人。
私の前では頑張らないで、なんてそんなことを言える立場じゃないのかもしれない。
だけど、どうしても言わずにはいられなかった。
千秋くんが、素の自分でいられる場所でありたかった。
ぎゅ、とくちびるを噛んだら、突然視界が不明瞭ににじんだ。ああ、何で私が泣いてるんだろう。
頬を拭おうとしたら、千秋くんがこちらを見た。彼の眦に涙の跡はなかった。本当に、強いひとなのだと思った。
「……すみません」
痛みを堪えるような顔で、彼が言った。そうして、私の頬の涙を指先ですくって、囁いた。
「俺のために泣いてくれて、ありがとう」
ふるふると首を横に振って、彼の瞳を見つめて――そうして私たちの距離がとても近いことに気づく。
きっと、千秋くんもそれに気づいた。
秒針の響きが聞こえなくなって、まるで、世界からふたりだけが切り離されたような沈黙。
どちらからともなく、目を瞑った。千秋くんがまとうラストノートが揺らめいて、そっとくちびるが重なった。
永遠のような、束の間のキス。
「……あ、」
我に返ったように私を手離した千秋くんは、
「シャワーを浴びてきます」
そう言って立ち上がった。だけど、ドアまで向かいかけたところでもう入浴を済ませていることを思い出したのか、突然立ち止まる。
秒針の響きが、硬質な足音みたいに沈黙を進む。
おそらくは千秋くんも私も混乱していて、今の状況で何を言うのが適切なのか、あまりわかっていなかった。
このぎこちない沈黙を何とか上書きしようと思考を巡らせて――そうだ、と私がかろうじて思いついたのは。
「あのね、職場でチケットをもらったの! ナイトアクアリウムで、期間限定で……その、2枚もらったからよかったら一緒に行かない?」
「あ、……はい、行きます!」
まるで、初めてキスを交わした若い学生みたいなやりとりだった。