極甘CEOと交際0日の仮初結婚 ~一途な彼の、初恋妻になりました~
その人物が入室してきた途端、千秋くんがはっと息を呑んだ。二条さんも表情を緊張させて、その人物に向かって膝を折る。
私だけが、室内の緊迫に取り残された。
ぽかんと中途半端に口をあけたまま立ち尽くす私に、その人物が視線を向けた。ダークグレーの三つ揃いの服を着た老紳士だった。――三つ揃いの服、という言葉が自然と脳裏に浮かんだ。
スーツ、という響きが老紳士に対してあまりにも軽すぎるような気がして。
張り詰めたような空気の中で、
「……お父様」
千秋くんが、老紳士のことをそう呼んだ。その瞬間に、目の前にいる老紳士が久遠グループの総帥、久遠清典氏であることを知る。千秋くんを養子に迎えた――千秋くんのお祖父様。
清典氏は、私から視線を外した。一切の表情の変化を見せず、覇道を進む王のように、千秋くんの前へ向かう。
静かな靴音。それなのに、やけに大きく室内に響いた。
「濁りきった泡沫に、現を抜かすとは浅ましい」
千秋くんに向けられた厳格な声音。一瞬で、空間全体を支配する。
「……何を、」
口をひらいた千秋くんを、清典氏が一瞥する。眼差しすらも、この空間の支配者だ。
「おまえは久遠グループを継ぐ者だ。自覚を持ち、責任を果たせ」
低い声が、世界に沈む。
「……行きましょう」
耳元で囁かれて、はっとした。いつの間にか、二条さんが私のすぐ後ろに来ていた。
二条さんが、声すら発せない私の手を取った。私は二条さんに手を引かれて、反転した世界を歩くような現実感のない足取りで部屋を出た。