極甘CEOと交際0日の仮初結婚 ~一途な彼の、初恋妻になりました~
曖昧になった時間の流れのなかで、やがてタクシーがマンションに着いた。食費用の一万円札を2枚出して、お釣りを受け取らずにタクシーを出た。
3センチヒールの靴音が場違いに響く。私に不釣り合いな豪奢なエントランス。私に不釣り合いな高層階専用のエレベーター。すべてに場違いな音を響かせて、夢みたいな日々を過ごした部屋に着いた。
カチャリと響いた鍵音。最後から二番目の、世界をひらき――閉ざす音。
3センチヒールを束の間脱いで、真っ暗な廊下を歩いた。壁を伝って歩けば、やがて私の部屋だった場所に行き着く。
ドアをあければ、カーテン越しの淡い光に浸った室内。
そろり、と足音を忍ばせるように歩いて、デスクの前に立った。ふるえる指先で引き出しをあけて、折りたたまれた婚姻届を取り出す。
デスクの上にゆっくりとひらけば、美しい筆跡で記された彼の名前があった。
触れることを恐れながら、それでも愛おしむように指先でなぞって――最後は行き先を失って指先を握りこむ。
――今、きみのことを愛してしまったなんて、知りたくなかった。
ぽたぽたとこぼれ落ちた涙が、彼の筆跡をにじませた。
それでも、頬を濡らす涙を拭って、婚姻届を両手で持ち上げる。
――妻の欄が、ちゃんとまだ空欄でよかった。
指先に力を込めて、びりびりと婚姻届を破った。
そうして、世界をひらいて閉ざす最後の音を聞いて、鍵を備え付けのポストに返して、私はマンションを後にした。