極甘CEOと交際0日の仮初結婚 ~一途な彼の、初恋妻になりました~
「……怪我、」
千秋くんの正面に回り込む。
視線が合わさった瞬間に逸らした。眼差しを斜め下に向けたまま、地面に落ちたバッグを拾って、中からハンカチを取り出した。
そうして眼差しを逸らしたまま、千秋くんの口元の傷に当てた。
「汚れます」
「前に、私もハンカチを借りた」
――何も持たない自分の無価値に、絶望した夜に。
清潔な洗剤の匂いと、ぐちゃぐちゃになったアイシャドウのラメを思い出して、私の目には涙がにじむ。
あの夜に、私たちはふたたび出会った。夕やけのオレンジと、儚く繊細な三日月の世界。その続きを生きていると信じ込んで、私はきみに恋をした。
「……ごめんね。今日まで、守ってくれてありがとう」
そう言った瞬間、千秋くんの眼差しが揺れた。その揺らめきの意味を問うことはもう無意味。
だって私たちは、きっと今日限り会うことはない。
「私はもう、ひとりで大丈夫だから」
だから――夢みたいな結婚生活はもうおしまい。
「ちゃんと自分でアパートを借りるから、私の荷物は着払いで送って」
ちゃんと、千秋くんに安心してもらえるように笑いたかった。それなのに、視界が不明瞭ににじんでゆく。
「紗夜香さん、」
「いつまでも――好きにならないから、もうおしまい」
いつか――俺のことを好きになってくれたなら。
いつでもサインをしてください、と千秋くんは言った。だけど――二条さんの言う通り、愛しているなら身を引くべきだ。
私の存在が、きみにとっての傷となる。
それを知っていながら、きみのそばにいることはできない。
だって、きみを愛しているから。
ぎゅっとくちびるを引き結んで、涙がこぼれる前に彼に背を向けた。3センチヒールのパンプスで歩く。
私の世界に戻るために。