野いちご源氏物語 四八 早蕨(さわらび)
お引越し前日の早朝に、薫の君は山荘へご挨拶にいらっしゃった。
いつもの客席にお座りになると、大君のことを思い出される。
<私の方こそ、大君を都へお迎えしようと決めていたのに。大君は私を完全に拒絶なさるふうでもなかった。もう一押しすれば結婚できたかもしれない。私がのんびりしすぎてしまったのだ>
お胸が痛くなるほど後悔なさる。
薫の君がお越しということで、女房たちも大君を思い出して泣いている。
まして中君は、涙が川のように流れて、明日のお引越しのことなどお考えになれない。
ぼんやりと横になっていらしゃると、薫の君がおっしゃった。
「積もる話を少しお聞きくださいませんか。あなた様にお聞きいただけたら、この悲しみも和らぐ気がするのです。今日はいつものように遠ざけないでください。ますます孤独になってしまいます」
「お遠ざけするつもりはないけれど、心が乱れているせいで、つまらない愚痴を申し上げてしまいそうなの」
お話しするのは遠慮したいとおっしゃるけれど、女房たちが薫の君にご同情してあれこれ言うものだから、物越しにお会いになった。
ひさしぶりにお越しになった薫の君は、あいかわらず上品でお美しい。
さらに落ち着いた大人の男性におなりで、女房たちはうっとりしている。
中君は姉君のことを思い出してしまわれるから、そのお美しさまでがおつらい。
「おめでたいお引越しの前日ですから、今日は亡くなった人のお話はやめた方がよろしゅうございますね」
やっと出てきてくださった中君が沈みこんだご様子なので、薫の君は無難なお話をすることになさった。
「あなた様がお移りになる匂宮様のご自宅は二条の院ですが、私は三条の屋敷を建て直しているところなのです。完成したら仮住まいからそちらへ移る予定ですから、ご近所ということで御用の際はお気軽にお呼びくださいませ。
今後もこうしてあなた様のお世話をさせていただきたいのですが、いかがでございましょう。考えは人それぞれと申しますから、ご迷惑かもしれないと存じまして」
「宇治を離れがたく思っておりますのに、あなた様まで都のお話をなさいますとますます悲しくて、どうお返事したらよいのか分かりません」
弱々しくおっしゃる可憐なご様子に、薫の君は大君を思い出される。
<この人を私の妻にしてしまうことだってできたのに>
とお悔しいけれど、今さらどうしようもないことだから、あの夜のことはちらりともおっしゃらない。
むしろ忘れていらっしゃるのかと思うほどで、中君のことは宮様のお妃様として丁重にお扱いになる。
山荘のお庭の紅梅が、色も香りも優しく咲いている。
そこへ鶯がやって来てさえずる。
<今年の春はこれまでとはまったく違う。本当に同じ春なのだろうか>
大君がお亡くなりになった春など色あせて見えるおふたりだから、はっきりと大君のお話をなさらなくても、しんみりとした雰囲気になる。
風がさっと吹きこんで、梅の香りと薫の君の香りがお部屋に漂った。
それでまた大君のことを思い出される。
<ご退屈なときも、この世に嫌気の差されたときも、姉君はあの紅梅を愛でてお心を慰めていらっしゃった>
お気持ちが押さえきれず、中君はぼそりとおっしゃる。
「運命に振りまわされて混乱している私のところへ、まぁ、なつかしい香りが」
薫の君も寂しそうにつぶやかれる。
「私のものにできなくもなかった梅は、明日、よそのお屋敷へ行ってしまわれるのですね」
涙をおぬぐいになると、
「またこうしてどんなことでもお話しできましたら」
と言って退出なさった。
お引越しについてのあれこれを女房たちにご指示なさる。
以前に薫の君からお着物をいただいた家来が、山荘に残って管理人をするみたい。
近くのご自分のご領地の人に、この家来の手伝いをするよう言い置いておかれる。
こういう細々としたことまで、しっかり配慮なさる方なのよね。
いつもの客席にお座りになると、大君のことを思い出される。
<私の方こそ、大君を都へお迎えしようと決めていたのに。大君は私を完全に拒絶なさるふうでもなかった。もう一押しすれば結婚できたかもしれない。私がのんびりしすぎてしまったのだ>
お胸が痛くなるほど後悔なさる。
薫の君がお越しということで、女房たちも大君を思い出して泣いている。
まして中君は、涙が川のように流れて、明日のお引越しのことなどお考えになれない。
ぼんやりと横になっていらしゃると、薫の君がおっしゃった。
「積もる話を少しお聞きくださいませんか。あなた様にお聞きいただけたら、この悲しみも和らぐ気がするのです。今日はいつものように遠ざけないでください。ますます孤独になってしまいます」
「お遠ざけするつもりはないけれど、心が乱れているせいで、つまらない愚痴を申し上げてしまいそうなの」
お話しするのは遠慮したいとおっしゃるけれど、女房たちが薫の君にご同情してあれこれ言うものだから、物越しにお会いになった。
ひさしぶりにお越しになった薫の君は、あいかわらず上品でお美しい。
さらに落ち着いた大人の男性におなりで、女房たちはうっとりしている。
中君は姉君のことを思い出してしまわれるから、そのお美しさまでがおつらい。
「おめでたいお引越しの前日ですから、今日は亡くなった人のお話はやめた方がよろしゅうございますね」
やっと出てきてくださった中君が沈みこんだご様子なので、薫の君は無難なお話をすることになさった。
「あなた様がお移りになる匂宮様のご自宅は二条の院ですが、私は三条の屋敷を建て直しているところなのです。完成したら仮住まいからそちらへ移る予定ですから、ご近所ということで御用の際はお気軽にお呼びくださいませ。
今後もこうしてあなた様のお世話をさせていただきたいのですが、いかがでございましょう。考えは人それぞれと申しますから、ご迷惑かもしれないと存じまして」
「宇治を離れがたく思っておりますのに、あなた様まで都のお話をなさいますとますます悲しくて、どうお返事したらよいのか分かりません」
弱々しくおっしゃる可憐なご様子に、薫の君は大君を思い出される。
<この人を私の妻にしてしまうことだってできたのに>
とお悔しいけれど、今さらどうしようもないことだから、あの夜のことはちらりともおっしゃらない。
むしろ忘れていらっしゃるのかと思うほどで、中君のことは宮様のお妃様として丁重にお扱いになる。
山荘のお庭の紅梅が、色も香りも優しく咲いている。
そこへ鶯がやって来てさえずる。
<今年の春はこれまでとはまったく違う。本当に同じ春なのだろうか>
大君がお亡くなりになった春など色あせて見えるおふたりだから、はっきりと大君のお話をなさらなくても、しんみりとした雰囲気になる。
風がさっと吹きこんで、梅の香りと薫の君の香りがお部屋に漂った。
それでまた大君のことを思い出される。
<ご退屈なときも、この世に嫌気の差されたときも、姉君はあの紅梅を愛でてお心を慰めていらっしゃった>
お気持ちが押さえきれず、中君はぼそりとおっしゃる。
「運命に振りまわされて混乱している私のところへ、まぁ、なつかしい香りが」
薫の君も寂しそうにつぶやかれる。
「私のものにできなくもなかった梅は、明日、よそのお屋敷へ行ってしまわれるのですね」
涙をおぬぐいになると、
「またこうしてどんなことでもお話しできましたら」
と言って退出なさった。
お引越しについてのあれこれを女房たちにご指示なさる。
以前に薫の君からお着物をいただいた家来が、山荘に残って管理人をするみたい。
近くのご自分のご領地の人に、この家来の手伝いをするよう言い置いておかれる。
こういう細々としたことまで、しっかり配慮なさる方なのよね。