野いちご源氏物語 四八 早蕨(さわらび)
お帰りになる前に(べん)(きみ)をお呼びになったけれど、弁の君は(あま)になったことを理由にお断りした。
「おめでたいお引越しでございますのに、年老いた私がお(とも)をしてはみっともないと存じまして、いっそ出家(しゅっけ)することにいたしました。今後は世間様とお付き合いをせず、ひっそりと死んでいくつもりでおります」

(かおる)(きみ)はそれでも無理にお呼びになって、弁の君の(あま)姿(すがた)を<気の毒な>とご覧になる。
いつものように昔話をおさせになると、泣きながらおっしゃった。
中君(なかのきみ)が都へお移りになったあとも、こちらの山荘(さんそう)にはときどき(うかが)おうと思っていたのだ。知っている女房(にょうぼう)がいなくては心細いから、そなたがここに残ってくれてよかった」
中君がお引越しなさったら、山荘は空っぽになって、思い出まで消えてしまうような気がなさっていたのでしょうね。

「終わりの見えない長生きはつろうございます。大君(おおいぎみ)はこの年寄りの()(すえ)など気にもなさらず、あっさり見捨ててしまわれました。こんなふうに亡き(あるじ)をお(うら)みして、辛気(しんき)くさい顔で生きながらえておりましたら、死んでも(ばち)が当たるのでございましょうね」
面倒な愚痴(ぐち)をこぼすのを、薫の君はやさしくおなぐさめになる。

ひどく年老いているけれど、髪を尼らしく短くしたことで雰囲気がさっぱりした。
少し若返ったような感じがして、品のよい尼とも言える。
<大君もこうして尼にしてさしあげたらよかった。そうすればご利益(りやく)寿命(じゅみょう)()びて、しみじみと落ち着いたお話ができたかもしれないのに>
ご想像なさると弁の尼のことまでうらやましくなってしまわれる。

間のついたてを少しずらして、親しくお話しなさる。
すっかりぼけたようになっているけれど、話し方や態度は悪くない。
教養のある人だったのだろうと薫の君はお認めになる。

「老いるほどつらいことが増えていたのですから、その涙におぼれてもっと早く死んでいればようございました。それなら大君に(さき)()たれるなどという目に()わずにすみましたのに」
「自ら死ぬのも(つみ)(ぶか)いことだと仏様は(おお)せだ。そんなことをしたら極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へは行けないだろう。むしろ苦しい地獄(じごく)へ行くことになる。生きながらえても無理やり死んでも、結局むなしいのだ。
それに、私はそなたの言うように涙におぼれ死んだとしても、大君のことは忘れられない。(こと)あるごとに思い出してしまうだろう。いつになれば少しはこの気持ちが(なぐさ)められるのだろうか」

きっとそんな日は永遠に来ないとお思いになる。
帰る気にもなれなくて日が暮れるまで山荘にいらっしゃるけれど、(みょう)(うわさ)が立ってはいけないとお帰りになった。
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