月のうさぎと地上の雨男
 譲が扉をノックすると、部屋の中が静かになった。


「姉さん、失礼するよ」

「譲か。渡もいるな? 入れ」


 美佳の声に従って、譲と渡は客間に入る。

 園佳と雫は『私たちはここで聞き耳立ててるから』『叔父さん、扉ちょっと開けておいて』と言って、ひらひらと手を振った。
 譲と入れ替わりで歌帆が部屋から出てきた。


「母さんは聞き耳立てるなんて行儀の悪いことはしません。あとで美佳さんから愚痴を聞きます」

「歌帆さんが一番質が悪い……」


 苦笑して肩を落とした譲の後に続き、渡は美佳の向かいに正座した。


「で、佳貴くんはどうしたんだい?」

「僕の婚約者を、渡が彼女だなんて言うから」


 佳貴は立ったまま、譲と渡を睨んだ。


「それ、正式な話じゃなかっただろう?」


 譲が穏やかに美佳に視線を向ける。


「ああ、そうだ。十年近く前にそういう話は出たが、佳貴が乗り気ではなかったし、凪様も幼かったから流れたんだ」

「現代日本で中学生が小学生と結婚しろって言われて、乗り気になるほうがおかしいだろうが!」


 それは確かにと思い、渡も頷きそうになったが黙っていた。


「ああ、そうだ」


 美佳も頷いた。


「だから話は立ち消えたんだ。あまりに時代錯誤だとな。今さら佳貴が何を言っているのか、私には分かりかねる」

「……あのときは驚いたけど、話が完全になくなってるなんて思ってなかったんだよ。僕が大学を出るか、向こうが高校か大学を出たらって思ってたのに」


 言いよどむ佳貴に、美佳は淡々と諭すように話を続けた。


「それは、誰かに確認したのか? 佳貴が、一人で勝手にそう思っていたのではないか?」


 厳しい言葉に佳貴は言葉を失った。


「渡は逐一状況を譲に伝え、判断を仰いできた。もちろん完全ではなく、事後報告になることもあったが、報告と相談を疎かにはしなかった。佳貴、お前はどうなんだ」

「だ、だって」

「言い訳無用。独りよがりな思い込みに他者を巻き込むんじゃない」


 渡はできる限り真顔を保ったが、怖かった。正直、とても怖かった。

 美佳伯母も月詠美凪子婦人も、上に立つ女性というのはどうしてこう怖いのだろう。

 母の歌帆がおっとりしているから、余計にそう感じるのかもしれない。

 というか、だから譲は歌帆を妻に選んだのではないかと、渡は思ってしまった。

 佳貴は黙り込んだまま、拳を握りしめていた。

 少しして、佳貴が口を開く。


「……お騒がせして、申し訳ありませんでした」

 軽く頭を下げて、彼は客間を出て行った。

 残された渡も部屋を出たくて仕方がないが、美佳と譲の様子を見ると、出て行っていいのか判断がつかず、おとなしく座っていた。

 しばらくして、美佳が深くため息をついた。


「すまないね、渡。譲も。いや、まさかあの話を佳貴が覚えているとも、その気だとも思っていなかったんだ」

「俺はいいけどさ。渡には説明してやってよ。いきなりのことで、わけわかんないだろうし」


 譲が笑いながら言った。

 美佳が頷いて渡に向き直る。


「それもそうだ。……そもそも雨水と月詠の先代の話になる」


 渡は黙って頷いた。
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