月のうさぎと地上の雨男
 しかし、渡が手を上げる前に肩を引かれた。

 振り返ると呆れた顔の譲と、笑顔の美佳が立っていた。


「渡、雫、飯食いに行こう。蛙前(かわずまえ)が離れに俺たちの食事を用意してくれたそうだ。母さんは先に行っているから」

「え、うん。わかった」


 渡は拍子抜けして頷いた。

 しかし、美佳の凍るような笑顔に、渡の怒りは引っ込み、代わりに背中を汗がだらだらと伝った。

 譲と共に軽く頭を下げ、渡と雫は離れへ向かった。


「父さん、どこから聞いてたのさ」

「渡が『間男』って罵られていたあたりからかな」

「最初からじゃないか」

「うん。俺と姉貴も、あのあとすぐダイニングに向かったからね。いやあ、佳貴くんはこじらせてるね。あはは」


 おかしそうに笑う父に、譲は気が抜けた。

 離れの座敷では歌帆(かほ)が待っていた。


「お疲れさまです。ごはんにしましょう。蛙前たちが用意してくれましたよ」


 中央の座卓には山ほどの料理が並んでいた。

 全員で座って手を合わせて、食事を始めた。


「父さんは、佳貴くんにあんな風に言われてなんとも思わないの?」


 雫が箸を進めながら尋ねた。


「別に? 息子があれだけ怒ってくれたし、佳貴くんが園佳さんにコンプレックスがあるのは知っていたしね」

「父さんは美佳伯母さんにそういうのないんだ」

「うーん、昔はあったけど、あそこまでじゃないし。それに歌帆さんと結婚したいって俺が言ったときに、最初に姉さんが味方になってくれたからね。仕事についても根回ししてくれて……頭上がらないよ」

「それにね」


 歌帆がくすくす笑いながら後を続けた。


「美佳義姉さんはちょっと強情なところがあるけど、そこをうまく丸くまとめるのは譲さんの方が得意なのよね。だから持ちつ持たれつ、なんだかんだ仲のいい姉弟だわ」

「姉貴の強情がちょっとかどうかはさておき、俺と姉貴は得意な分野が違う。そこに気づいた時から、苦手意識はかなり減ったよ」

「ふうん。佳貴くんも、気づけるといいねえ」


 雫が言うと、譲は眉をひそめた。


「そうだなあ。ちょっと難しいかもしれないけど、いつかはねえ。ほら、姉貴と園佳さんがそっくりだからさ。義兄さんはなかなか介入しないしね」


 美佳の夫は、渡が見る限り穏やかな男性だ。美佳より年下で、物静かな、おっとりしたイメージが強い。ほとんど話さないので、渡もあまり人となりを知らないのだが。


「ま、姉貴の家のことは姉貴と義兄さんでなんとかするさ。俺らは蛙前が作ってくれた美味い食事を食べながら年を越そう」

「そうね。譲さん、私蟹が食べたいわ」

「今剥くから待っててね!」


 渡は、両親が仲睦まじく食事をするのを視界に入れないようにしながら箸を進めた。

 凪は年越しは月ですると聞いていた。

 落ち着いたら電話をすると言われていたので、渡はそれを待ちつつ、凪に送ろうと食事の写真を撮っておいた。



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