『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』
【第一話】聖女の仮面と、深夜の吐息 〜企画営業部の鉄の女は、推しの声に溺れたい〜
1. 氷壁の聖女、その内側の狂気
午前八時五十五分。
凛として冷ややかな空気を纏い、氷室凛(ひむろ りん)は大手飲料メーカー『サンスターツ』のオフィスへと足を踏み入れる。
寸分の狂いもないタイトスカートに、一筋の乱れもない夜会巻き。そして、誰をも寄せ付けないほどに研ぎ澄まされた美貌。
「おはようございます、氷室さん」
「おはようございます」
すれ違う同僚たちに、凛は口角をわずか一ミリも動かさず、正確な発声で応じる。彼女は入社三年目にして企画営業部のエース。「氷壁の聖女」と崇められ、社内で彼女の動揺を見た者はいない。
だが、誰も知らない。彼女の耳に装着された最新型ワイヤレスイヤホンの内側で、彼女の理性を狂わせる「禁断の劇薬」が流れていることを。
『……お疲れ様。今日も君が、誰よりも頑張っていること、俺は知ってるよ』
(はうっ……!)
鼓膜を優しく愛撫する、深く艶やかな低音ボイス。配信アプリ『LIME Live』で不動の人気を誇る謎のパーソナリティ「ナイト」。凛にとって彼は神であり、この殺伐とした戦場で唯一の酸素だ。
(今の『お疲れ様』の『ま』の余韻! 吐息成分が通常の1.2倍……! 尊すぎて脳細胞が8割死滅した……。帰宅したら周波数解析して、脳内保管庫に永久欠番として保存しなきゃ……!)
内心で限界オタク特有の猛烈な独白を繰り広げながらも、凛の表の顔は依然として「冷徹な聖女」のままである。
2. 氷の部長による、甘美な処刑
「氷室、手が止まっているぞ」
背後からかけられたのは、ナイトの優しさとは対極にある、鋭く冷徹な声。企画営業部を率いる若きカリスマ部長、一ノ瀬駿(いちのせ しゅん)だ。
「一ノ瀬部長。何か」
凛は感情を殺して振り返る。一ノ瀬はモデルのような体躯を高級スーツに包み、冷ややかな瞳で凛を見下ろした。
「例の新規プロモーション『癒やしのASMRラウンジ』の件だ。コンセプトは面白いが、ターゲット層の心理的導線の根拠が甘い。……君のその『完璧な分析力』を期待して、この大役を任せたんだ。今日の午後三時までに、俺を納得させる補足資料を持ってこい」
嫌味なほど完璧な笑みを浮かべ、一ノ瀬は資料をデスクに叩きつけた。
凛は昼休憩を返上し、猛然と資料作成に取り掛かる。彼女の武器は、推し活で培った「執念の分析力」だ。
(なぜ人は『声』に金を払うのか。なぜ深夜二時の囁きに人生を救われるのか。……私の、ナイト様への愛と狂気を、すべてロジカルなマーケティング用語に置換してやる……!)
指先がキーボードを叩く間も、耳元ではナイト様のアーカイブ放送が流れている。
だが、ふと凛の動きが止まった。
『……さて。今夜の放送は、少し趣向を変えてみようかな』
イヤホンの中のナイト様が、画面の向こうで「カチッ」と三回、独特のリズムでペンをノックした。
(……え?)
直後、数メートル先の一ノ瀬のデスクからも、全く同じリズムのノック音が響く。
「……ああ。そのプロモーションは、俺が直接、徹底的に『指導』するつもりだ」
電話中の一ノ瀬の声。そして、イヤホンから流れるナイト様の声。
周波数、発声の癖、語尾の消え際——一万時間以上聴き込んできた「推しの声」が、目の前の「鬼部長」と完全に一致した。
3. 正体バレと、独占宣言
午後三時。約束の時間。凛は完璧な資料を抱え、一ノ瀬のデスクへ向かった。
「一ノ瀬部長、資料です。……特に、コア層のエンゲージメント向上のための『声による没入演出』について詳細を追記しました」
一ノ瀬は資料を捲り、ふっと口角を上げた。
「……見事だ。特にこの『推しの吐息は実質無料のサプリメント』という独自の注釈。非常に、狂気を感じる」
凛の心臓が止まりかける。
「……それは、市場の声をそのまま引用したまでで……」
「そうか? では、これも『市場の声』か?」
一ノ瀬が自分のスマートフォンを凛に向けた。そこには、配信者専用の管理画面。
昨夜の放送で、凛のユーザー名『凍れる薔薇』が投げた【一生ついていくので、私のこと飼ってください!】という一万円のスパチャと、その履歴が表示されていた。
「氷室。お前の耳、音漏れしてるぞ。……そして、このアカウントの登録メールアドレス、社用のドメインになっていたことに気づかなかったのか?」
凛の完璧な仮面が、音を立てて崩れ去る。
「……あ、……ぁ…………」
一ノ瀬はゆっくりと立ち上がり、逃げ場を塞ぐように凛に顔を近づけた。
「やっと捕まえた。俺の正体に気づいて、なおかつ俺を『飼って』なんて言える度胸があるのは、この会社で君くらいだと思っていたが」
一ノ瀬は、凛の耳元で。配信で聴き慣れた「ナイト」の極上ボイスで、熱を帯びた囁きを落とした。
「……秘密の共有は、恋の最短ルートだ。……明日から、このプロモーションの主役(ナレーター)は俺がやる。……その代わり、お前は俺専属のプロデューサーとして、公私ともに俺を支えろ。いいな?」
「………………(爆死)」
凛の膝から力が抜ける。
完璧なヒロイン・氷室凛の「平穏なビジネスライフ」は、最愛の推しの執着心によって、甘く鮮やかに粉砕された。
つづく
午前八時五十五分。
凛として冷ややかな空気を纏い、氷室凛(ひむろ りん)は大手飲料メーカー『サンスターツ』のオフィスへと足を踏み入れる。
寸分の狂いもないタイトスカートに、一筋の乱れもない夜会巻き。そして、誰をも寄せ付けないほどに研ぎ澄まされた美貌。
「おはようございます、氷室さん」
「おはようございます」
すれ違う同僚たちに、凛は口角をわずか一ミリも動かさず、正確な発声で応じる。彼女は入社三年目にして企画営業部のエース。「氷壁の聖女」と崇められ、社内で彼女の動揺を見た者はいない。
だが、誰も知らない。彼女の耳に装着された最新型ワイヤレスイヤホンの内側で、彼女の理性を狂わせる「禁断の劇薬」が流れていることを。
『……お疲れ様。今日も君が、誰よりも頑張っていること、俺は知ってるよ』
(はうっ……!)
鼓膜を優しく愛撫する、深く艶やかな低音ボイス。配信アプリ『LIME Live』で不動の人気を誇る謎のパーソナリティ「ナイト」。凛にとって彼は神であり、この殺伐とした戦場で唯一の酸素だ。
(今の『お疲れ様』の『ま』の余韻! 吐息成分が通常の1.2倍……! 尊すぎて脳細胞が8割死滅した……。帰宅したら周波数解析して、脳内保管庫に永久欠番として保存しなきゃ……!)
内心で限界オタク特有の猛烈な独白を繰り広げながらも、凛の表の顔は依然として「冷徹な聖女」のままである。
2. 氷の部長による、甘美な処刑
「氷室、手が止まっているぞ」
背後からかけられたのは、ナイトの優しさとは対極にある、鋭く冷徹な声。企画営業部を率いる若きカリスマ部長、一ノ瀬駿(いちのせ しゅん)だ。
「一ノ瀬部長。何か」
凛は感情を殺して振り返る。一ノ瀬はモデルのような体躯を高級スーツに包み、冷ややかな瞳で凛を見下ろした。
「例の新規プロモーション『癒やしのASMRラウンジ』の件だ。コンセプトは面白いが、ターゲット層の心理的導線の根拠が甘い。……君のその『完璧な分析力』を期待して、この大役を任せたんだ。今日の午後三時までに、俺を納得させる補足資料を持ってこい」
嫌味なほど完璧な笑みを浮かべ、一ノ瀬は資料をデスクに叩きつけた。
凛は昼休憩を返上し、猛然と資料作成に取り掛かる。彼女の武器は、推し活で培った「執念の分析力」だ。
(なぜ人は『声』に金を払うのか。なぜ深夜二時の囁きに人生を救われるのか。……私の、ナイト様への愛と狂気を、すべてロジカルなマーケティング用語に置換してやる……!)
指先がキーボードを叩く間も、耳元ではナイト様のアーカイブ放送が流れている。
だが、ふと凛の動きが止まった。
『……さて。今夜の放送は、少し趣向を変えてみようかな』
イヤホンの中のナイト様が、画面の向こうで「カチッ」と三回、独特のリズムでペンをノックした。
(……え?)
直後、数メートル先の一ノ瀬のデスクからも、全く同じリズムのノック音が響く。
「……ああ。そのプロモーションは、俺が直接、徹底的に『指導』するつもりだ」
電話中の一ノ瀬の声。そして、イヤホンから流れるナイト様の声。
周波数、発声の癖、語尾の消え際——一万時間以上聴き込んできた「推しの声」が、目の前の「鬼部長」と完全に一致した。
3. 正体バレと、独占宣言
午後三時。約束の時間。凛は完璧な資料を抱え、一ノ瀬のデスクへ向かった。
「一ノ瀬部長、資料です。……特に、コア層のエンゲージメント向上のための『声による没入演出』について詳細を追記しました」
一ノ瀬は資料を捲り、ふっと口角を上げた。
「……見事だ。特にこの『推しの吐息は実質無料のサプリメント』という独自の注釈。非常に、狂気を感じる」
凛の心臓が止まりかける。
「……それは、市場の声をそのまま引用したまでで……」
「そうか? では、これも『市場の声』か?」
一ノ瀬が自分のスマートフォンを凛に向けた。そこには、配信者専用の管理画面。
昨夜の放送で、凛のユーザー名『凍れる薔薇』が投げた【一生ついていくので、私のこと飼ってください!】という一万円のスパチャと、その履歴が表示されていた。
「氷室。お前の耳、音漏れしてるぞ。……そして、このアカウントの登録メールアドレス、社用のドメインになっていたことに気づかなかったのか?」
凛の完璧な仮面が、音を立てて崩れ去る。
「……あ、……ぁ…………」
一ノ瀬はゆっくりと立ち上がり、逃げ場を塞ぐように凛に顔を近づけた。
「やっと捕まえた。俺の正体に気づいて、なおかつ俺を『飼って』なんて言える度胸があるのは、この会社で君くらいだと思っていたが」
一ノ瀬は、凛の耳元で。配信で聴き慣れた「ナイト」の極上ボイスで、熱を帯びた囁きを落とした。
「……秘密の共有は、恋の最短ルートだ。……明日から、このプロモーションの主役(ナレーター)は俺がやる。……その代わり、お前は俺専属のプロデューサーとして、公私ともに俺を支えろ。いいな?」
「………………(爆死)」
凛の膝から力が抜ける。
完璧なヒロイン・氷室凛の「平穏なビジネスライフ」は、最愛の推しの執着心によって、甘く鮮やかに粉砕された。
つづく
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