『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

【第二話】昨夜のスパチャを、生ボイスで復唱しないでください

1. 絶望の月曜日と、完璧な朝食
 あの日――あの「正体バレ」の金曜日から、地獄の週末を経て月曜日がやってきた。
 氷室凛は、いつものように寸分の狂いもない動作で身支度を整える。鏡に映る自分は、相変わらず「氷壁の聖女」そのものだ。だが、その内側はボロボロの消し炭状態である。
(……夢ならよかった。一ノ瀬部長がナイト様だなんて。私が部長に『一生ついていくから養って!』と一万円投げたのがバレたなんて、そんな人類滅亡級の悪夢……!)
 凛は震える手で、プロテインシェイカーを振る。オタクの朝は早い。彼女が完璧な肌質と体型を維持しているのは、いつか「ナイト」に会える日が来た時のため(という妄想)の先行投資だった。それがまさか、毎日職場で顔を合わせる「鬼部長」への投資になっていたとは。
 凛は栄養剤を流し込み、戦場へと向かった。

2. 逃げ場のないオフィス・プリズン
 午前九時。サンスターツ社内。
 凛がデスクに座ると、社内チャットが通知を告げた。送り主は、一ノ瀬駿。
『氷室、至急部長室へ。資料の「最終確認」が必要だ。二人きりで』
 最後の一言に、凛の背筋が凍りつく。周囲の女子社員たちが「いいな、部長直々の指導なんて」と羨望の眼差しを向けるが、凛にとっては処刑台への招待状だ。
 重い扉を開けると、そこには全面ガラス張りの都会的な景色を背負った一ノ瀬がいた。彼はタブレットを眺め、不敵な笑みを浮かべている。
「おはよう、凛。……いや、『凍れる薔薇』さんと言うべきか?」
「……部長。職場では、どうか公私混同を避けていただけますよう、切実にお願い申し上げます」
 凛は鉄の表情を崩さず、深々と頭を下げた。だが、一ノ瀬は立ち上がり、ゆっくりと凛との距離を詰めてくる。
「公私混同? 違うな、これは『市場調査』だ。……昨夜の俺のアーカイブ、聴いたか?」
「……聴いて、おりません」
 嘘だ。昨夜、凛は布団の中で「もうファンを辞めるべきか、それともこのまま心中すべきか」と悩みながら、結局ナイトの声を三周リピートして、枕を涙と鼻水で濡らした。
「嘘だな。ログを確認した。お前、午前二時に三回も聴き返していただろ。……そんなに俺の声が恋しかったか?」
 一ノ瀬の顔が、凛の耳元に迫る。
「……っ!」
 逃げようとする凛の腰を、一ノ瀬の長い腕が軽々と引き寄せた。
「逃げるな。お前が投げた言葉……あれを、今ここで俺が直接『受理』してやろうと思ってな」
「受理……?」
 一ノ瀬は凛の耳朶に熱い息を吹きかけ、あの、世界で一番大好きな、そして今世界で一番憎い低音ボイスで囁いた。
「『一生ついていくから養って』。……いいぜ。お前の人生、俺がまるごと買い取ってやる。……その代わり、お前は俺以外の声に反応することは、今後一切禁止だ」
「…………っ、ひ、ひぎゃあああ(無音の絶叫)」
 凛の脳内で、萌えと屈辱の核爆発が起きた。尊すぎて爆死したい。だが目の前にいるのは、昨日自分を叱責した鬼部長なのだ。感情の不協和音が限界突破し、凛の鼻から危うく「聖女にあるまじき液体」が出そうになる。

3. 完璧なプロモーションと、張り巡らされた伏線
「……部長、離してください。仕事の話をしましょう。……『癒やしのASMRラウンジ』のプロモーション案ですが」
 凛は強引に公の仮面を被り、一ノ瀬を押し返した。彼女の完璧な仕事ぶりは、動揺を隠すための最大の防壁だ。
「……今回の目玉は、単なる音声配信ではありません。聴覚だけでなく、嗅覚と視覚を連動させた『多感覚没入』です」
 凛がプレゼン資料を広げる。
 サンスターツが新開発した「アロマ機能付きポータブルスピーカー」。これに、ナイトの声を載せる。
「特定のキーワードに反応して、アロマの香りが変わる仕様です。例えば、部長が『おやすみ』と言えばラベンダーが。『愛してる』と言えば、官能的なイランイランが――」
 そこまで言って、凛は自分の言葉の墓穴に気づいた。
「……官能的な、なんだって?」
 一ノ瀬の目が、獲物を見つけた猛獣のように光る。
「……失礼しました。官能的ではなく、リラックス効果のあるサンダルウッドの間違いです」
「いや、採用だ。……凛。お前、自分が書いたこの台本……俺が誰に向けて言うと思ってる?」
 一ノ瀬が資料の一節を指さす。そこには、凛が「ファンとして言われたい理想のセリフ」を詰め込んだ、究極の愛の告白が並んでいた。
(しまった……。自分の願望を完璧に反映させすぎた……!)

4. 動き出す世界感と、不穏な影
 プロモーションの骨子が固まる中、一ノ瀬は凛を連れて、音響開発部のラボへと向かう。
 そこで待っていたのは、凛の大学時代の同期であり、唯一の「元カレ(自称)」である開発主任・冴木(さえき)だった。
「凛! 相変わらず完璧だな。……部長、彼女をあまりこき使わないでくださいよ。凛は繊細なんだから」
 馴れ馴れしく凛の肩に手を置く冴木。その瞬間、ラボの気温がマイナス十度まで下がった。
 一ノ瀬の手が、凛の肩にある冴木の手を、音も立てずに剥ぎ取る。
「冴木主任。公私の区別はつけてもらおうか。……彼女は今、俺の専属プロデューサーだ。……指一本触れることも、俺が許可しない」
 一ノ瀬の瞳には、配信では決して見せない、冷酷で剥き出しの独占欲が宿っていた。
 凛は、その一ノ瀬の表情に、かつてない鼓動の高鳴りを感じてしまう。
(……待って。私はナイト様の声が好きなのであって、この傲慢な部長が好きなんじゃ……)
 だが、その夜。
 一ノ瀬から凛の個人スマホ(なぜ番号を知っているのかは不明)に、音声メッセージが届いた。
 恐る恐る再生すると、そこには。
『……凛。明日は少し、朝早く来い。……お前のために、特別な「モーニング・コール」を用意してあるから。……おやすみ、俺の可愛い薔薇』
「………………(爆死・二回目)」
 凛はスマホを抱えたまま、ベッドの上で激しくのたうち回った。
 完璧なヒロイン・氷室凛。
 彼女の日常は、推しからの「私物化宣言」によって、もはや修復不可能なほどに甘く、狂おしく壊れ始めていた。

つづく
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