『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

【第四話】「俺の女に、二度と触れるな」

1. 完璧な朝と、消えない熱
 水曜日。スタジオでの「爆死事件」から一夜明け、凛は鏡の前で自分の唇を指でなぞった。
(……受理、しちゃったんだ。部長のあの告白……)
 三年前の入社試験から見守られていたという事実は、凛のオタク心と女心を同時に撃ち抜いていた。
 だが、職場に行けば彼女は「氷壁の聖女」。いつものように隙のないスーツに身を包み、完璧な足取りでオフィスへ向かう。
 ところが、デスクに着くなり、不穏な空気がフロアを支配していた。
「——駿(しゅん)くん、久しぶり! 全然連絡くれないんだもん」
 一ノ瀬部長のデスクの隣で、華やかな香水の香りを振りまく美女が笑っている。
 凛の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
 彼女は、取引先の大手広告代理店の令嬢であり、敏腕プロデューサーの九条エリカ。一ノ瀬の大学時代の後輩であり、「一ノ瀬のフィアンセ候補」と業界内で噂されている女性だった。
2. 完璧な仮面の下の、黒い嫉妬
「九条さん、今日のアポイントは午後だったはずだが」
 一ノ瀬の声は冷淡だが、エリカは全く動じない。
「いいじゃない、プライベートの挨拶なんだから。ねぇ、今夜空いてる? 久しぶりに二人で『ナイト』の収録、やり直さない?」
 凛は、手に持っていた資料の端を指が白くなるほど強く握りしめた。
(『ナイト』の収録をやり直す……? 二人は、過去に一緒に配信を……?)
 自分だけが知っていると思っていた秘密。その「特別感」が、一瞬で音を立てて崩れていく。
 凛は完璧な無表情を装い、コーヒーを一ノ瀬のデスクに置いた。
「部長、午後の会議資料です。九条様、ようこそお越しくださいました」
 一分の隙もない会釈。だが、エリカは凛を上から下まで値踏みするように眺め、フッと嘲笑った。
「あぁ、あなたが噂の『氷室さん』? 仕事は完璧だけど、愛嬌がないって有名な。駿くん、こういうマシーンみたいな子がタイプになったの? 趣味が変わったわね」
 フロア中の社員が息を呑む。
 凛は言葉を飲み込み、頭を下げて去ろうとした。
 オタクとしての矜持が叫んでいた。自分は一リスナーであり、部下。こんなハイスペックな美女に勝てるはずがない、と。
3. ハイスペ男子の、剥き出しの宣戦布告
 その時、凛の細い手首が、力強い体温に掴まれた。
「——待て、氷室」
 一ノ瀬だった。彼は椅子から立ち上がり、凛を引き寄せると、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。
 フロア全体が、騒然とする。
「九条。お前の言葉には、二つの誤りがある」
 一ノ瀬の声は、地を這うような低音。それは、凛が愛してやまない「ナイト」が、怒りを露わにした時のあのトーンだった。
「一つ。彼女はマシーンではない。誰よりも熱い情熱を持って、俺の隣で俺を支えてくれる、このプロジェクトの心臓だ」
「……駿くん?」
 エリカの顔から余裕が消える。一ノ瀬はさらに凛の肩を抱く力を強め、彼女の髪に指を絡ませた。
「二つ目。俺の趣味は変わっていない。三年前から、俺の目に映っているのは——俺の心を動かせるのは、世界中で彼女一人だけだ」
 一ノ瀬はフロア中の全社員、そして青ざめるエリカに向かって、言い放った。
「氷室凛は、俺の専属プロデューサーであり、俺が人生をかけて口説き落とした、唯一の女性だ。……彼女に無礼を働くことは、俺への宣戦布告と見なす。二度と、俺の女を傷つけるような口を叩くな」
「………………っ(全人類爆死)」
 凛の脳内で、これまでの人生最大級のファンファーレが鳴り響いた。
 公開処刑ならぬ、公開溺愛。
 完璧なヒロインの仮面が、一ノ瀬の強引な宣言によって、甘く蕩けるように剥がれ落ちていく。
4. 張り巡らされた伏線、そして「ナイト」の真実
 エリカが逃げるように去った後、部長室に連れ込まれた凛は、壁に押し付けられていた。
「……部長、今の……あんなの、社内で……」
「黙れ。お前が不安そうな顔をするから、我慢が限界を超えたんだ」
 一ノ瀬は凛の首筋に顔を埋め、深く呼吸する。
「九条とは、学生時代に一度だけ企画を組んだことがある。だが、俺が配信を始めた本当の理由は、彼女とは関係ない」
 ここで、第二話で示唆された「声フェチ」の伏線が、一ノ瀬の口から直接回収される。
「三年前。面接で震えていたお前の、あの消え入りそうな『凛とした声』をもう一度聴きたくて、俺は配信のプラットフォームを探したんだ。いつかお前が、俺の声を見つけてくれるのを待つために。……お前が俺のリスナーだと知った夜、俺がどれだけ狂喜乱舞したか、教えてやろうか?」
「…………っ、ひ、卑怯です……そんなの、勝てるわけない……!」
 凛は一ノ瀬の胸に顔を埋め、わんわんと泣き出した。それは「氷壁の聖女」の崩壊であり、一人の恋する乙女への覚醒だった。
「……凛。お前、さっきの公開宣言のせいで、もう逃げ場はないからな。……明日からの出勤、楽しみにしておけ」
 一ノ瀬は、凛の涙を親指で拭い、極上の「ナイト」ボイスで耳打ちした。
「『……愛してる。俺のリスナー、兼、恋人』」
 凛の心臓は、もはや正常なリズムを刻むことを放棄していた。
 完璧なヒロイン・氷室凛は、ついに全社員の前で「推しの私有物」であることを刻印されたのである。


つづく
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